⑤A

 
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大西 虫媒花、虫によって仲立ちされる、そういうお花なのかもしれないけれども、媒介してくれるチョウチョウも飛んでこない。その4階のベランダの花も、いつの間にかそういうチョウチョウ来た気配はないんだけれども、小さい種を持って成熟の時を迎えているようだという歌ですが。4階のベランダっていうので、その作者の環境というようなものがよく出ていて、いい歌だと思いましたね。『媒介の蝶も来ずして四階のベランダの花小さき種持つ』。そういうチョウチョウも来ないようなところでも、花はちゃんと実を結ぶのだわ、と歌っていて、花へ何となく哀れな思い、そんな思いを注いでいる様子が出ていると思います。
 風媒花という言葉もあるし、虫媒花、虫によって仲立ちされて実を結ぶ花もいろいろありますが、そういう風媒っていうような言葉もいい言葉ですね。風によって仲立ちされて実を結ぶ、稲なんかそうでしょう。風媒花、風によって実を結ぶ植物もあれば、虫媒花、虫による花もあれば、それから、自分で揺れながらね、実を結んでいる花もあるし、そういうものを歌にしていくの、『媒介の蝶も来ずして』、なんていうのはなかなかうまいですよ。花の哀れを歌っている歌だと思いました。
 12番の歌。『孫の顔見ずして逝きし墓前にてわが初孫と娘と詣でる』『孫の顔見ずして逝きし墓前にてわが初孫と娘と詣でる』。先の歌でお孫さんができて、ひしと抱いたという歌が11番にございましたが、この作者は初孫を得たわけですね。ところが自分のお母さんは孫の顔も見ないで若くして亡くなったお母さんなのでしょう。そのお墓参りに、お嬢さんと一緒にお孫さんも連れて詣でてきたというわけですね。『孫の顔見ずして逝きし墓前にてわが初孫と娘と詣でる』。「る」と、上のほうね、見ずして逝きしと文語で歌ってらっしゃるから、詣でる、では口語ですね。文語にするとしたらどうしますか。詣でぬ、でしょうね、詣でぬ。上の方が文語だったら下の方も文語で、しっかりとまとめていく。
 それから、墓前にてっていうのもおかしくない? 墓前にて。『孫の顔見ずして逝きし墓前にて』。墓前にて詣でるっていうのはおかしいね。だから、墓の前とでもして、「にて」を取りましょうかね。『孫の顔見ずして逝きし墓の前わが初孫と娘と詣でぬ』。
 そして、娘と詣でぬという結句は、「むすめともうでぬ」と八音になって字余りね。それを子と読ませたらどうなるかな。『わが初孫と子と詣で来ぬ』とかして、ね。『孫の顔見ずして逝きし墓の前わが初孫と子と詣で来ぬ』とでもして、なるべく結句の五七五七七の最後の七音は字余りにしないほうが、歌が落ち着くのですね。落ち着いて余情が出る、そういうふうな工夫を、子と詣で来ぬ。『孫の顔見ずして逝きし墓の前わが初孫と子と詣で来ぬ』とでもしますと、この歌が落ち着いて、五七五七七の最後の七音はなるべく字余りにしないほうが、歌が落ち着く。
 それから、与野におられるけれども、加藤克巳先生の説によると、五七五、上の句の五、それも字余りにしないほうがいいですよと、よくおっしゃるんですね。五七五の五と、それから七七の七。その最後の、上の句と下の句の終わりはきちっと字余りにしないほうが収まりますよって加藤先生よくおっしゃいますが、そんなことも心に留めておくと、歌が作りやすくなると思います。
 『孫の顔見ずして逝きし母の墓』でもいいのかもしれないな、これ。
 
A- そうです。
 
大西 『孫の顔見ずして逝きし母の墓わが初孫と子と詣で来ぬ』。そんなことでもしましょうか、母の墓。前の歌で母が出てきたから、今度はいいやという感じかもしれないけれども、歌は一首一首勝負だから、一首の中で意味が完結しているほうが正しいですから、お母さんのお墓だってこと分かるほうがいいかもしれない。『孫の顔見ずして逝きし母の墓わが初孫と子と詣で来ぬ』。孫が生まれましたよっていう喜びを込めて、お墓参りをしたという歌ですね。
 14番。『鈴虫(むし)の音も途切れがちなるこの夕べ亡母(はは)の形見の帯出して見ぬ』『鈴虫の音も途切れがちなるこの夕べ亡母の形見の帯出して見ぬ』。鈴虫の声も絶え絶えになって寂しく秋が更けていこうとしている。そんな夕べに何となく昔のことが懐かしくなって、亡くなったお母さんの形見の帯を出して、昔をしのんだ、お母さんをしのんだということですね。『鈴虫の音も途切れがちなるこの夕べ亡母の形見の帯出して見ぬ』。ここで「鈴虫」と書いて「むし」と読ませていますが、この程度の振り仮名ならばね、そんなにおかしくないと思いますので、「むし」でよろしいでしょう。できれば、無理なルビは、振り仮名はしないほうがよろしいんですけれども。「鈴虫」が「むし」。鈴虫でなくてもいいんだね。虫の音も、と普通の、ただの虫だけを生かしてもいいのかもしれない。ただ、作者は鈴虫のリーンリーンとしたあの声が好きだったのでしょう。
 それから、「亡母」と書いてまた「はは」としてらっしゃるけれども、形見ということがあるから、亡くなったお母さんだということはわかるわね、下までいけば。そうすれば、「亡き母」と無理に書いて「はは」と読ませなくても、亡はいらないかもしれないね。母の形見のっていうことで。生き形見っていうこともあるけれども、普通は形見っていえば亡くなった人の遺品ということですからね、亡母の亡はいらないかもしれない。『母の形見の帯出して見ぬ』。秋深くなる頃、昔が懐かしい、特に亡くなったお母さんが懐かしくて、お形見の帯を出して見たりしているという意味がよく取れていて、この歌もいいと思いました。『虫の音も途切れがちなるこの夕べ母の形見の帯出して見ぬ』。
 それから、16番。『身のめぐり障り続きし憂き夏も涼風立ちてひぐらしの鳴く』『身のめぐり障り続きし憂き夏も涼風立ちてひぐらしの鳴く』。この夏は殊に長くて暑かった。身のめぐりにも障りのあることが多くあった。そんな憂鬱だった夏も、ようやく過ぎようとしていて、風が涼しくなった。涼風の中でヒグラシが鳴いて、秋であることを思わせるという歌なんですね。『身のめぐり障り続きし憂き夏も涼風立ちてひぐらしの鳴く』。
 ここでね、憂き夏もと言ってね、『憂き夏も涼風立ちて』って、少しつながらないという意見が出てくるかもしれないね。涼風立ちて、憂き夏がどうなったんだかはっきり言えてなくてね、いきなり涼風ときている。憂き夏はどうなったのか、憂き夏はどうしたん? 普通だったらどう言うかしら。いつしか過ぎてとかね、ようやく過ぎてとくる言葉が普通です。『身のめぐり障り続きし憂き夏もようやく過ぎてひぐらしの鳴く』とか。
 
A- 涼風立ちてか、どっちかを入れればいいんだ。
 
大西 どっちかをすればね。涼風の立つとかヒグラシが鳴くとか、どっちかを入れればいいのかもしれない。とすると、憂き夏も、どうなったのさ?って言われないように、歌会なんかに出すと。「憂き夏も涼風立ちて、おかしいじゃない?」って言われないようにするのには、憂き夏もいつしか過ぎてとか、ようやく過ぎてとかいう言葉がふさわしくなるのね。そして、ヒグラシが鳴くとか、涼風の立つとかすればよろしいと思うんですね。『身のめぐり障り続きし憂き夏もいつしか過ぎてひぐらしの鳴く』というような歌い方が普通かもしれない。
 何々が、とか何々も、ときたら、その説明が下にないと、どうしたのって言われる、欠点になってしまうことが多いですからね。『憂き夏もいつしか過ぎて』、ようやく過ぎて、というような、「も」ときたから、それを受ける言葉がないと、突っ込まれる原因になりますからね。『憂き夏もようやく過ぎて』、『いつしか過ぎてひぐらしの鳴く』のほうが、自然な歌い方かもしれない。
 日本語というのは、どんどん今乱れて苦しくなっている世の中ですけれども、私の師匠の木俣修という人は、どんなに現代の日本語が乱れても、歌詠みは言葉を乱してはいけない、純正な日本語を後世に伝えるのが歌詠みの役目だと、はっきりいつも言っておられましたが、何々がどうした、何々も何々だっていうふうな、歌の作り方のときに、言葉の受け応えね、何々がってあったら何々したっていうふうに、ちゃんと受けて言わなければならない、というようなことをよくおっしゃいましたけれども、そんなことを感じます。
 憂き夏もときたら、ようやく過ぎてというふうな言葉がくるのが自然だということですね。言葉を自然に使うこと、自然に使う。ねじ曲げないで、無理に使わないで。『身のめぐり障り続きし憂き夏もいつしか過ぎてひぐらしの鳴く』。そういうようなまとめ方をしていくのが、自然の成り行きだということですね。
 それから、18番。『麗しき神おはせしか青き空水また清しワイキキの浜』『麗しき神おはせしか青き空水また清しワイキキの浜』。17番のところで、ここは楽園だと歌ったハワイの歌らしいということを言っておりましたが、ここでワイキキの浜辺が出てくるからハワイであって、そして空は青く水も清い、まだ公害に侵されていないハワイの天地があるのでしょう。それを見ていると、作者は麗しい神でも昔いらしたのだろうかと歌って、そのハワイの天地の美しさをしみじみと称賛しているのですね。ハワイには女王さまがいたとか、神さまがいたとかいろいろな伝説がありますし、そういうことも聞きながら、麗しい神がいらしたから、おはせしかというのは敬語を使っていますが、美しい神さまでもいらしたせいでしょうか、いまだに空青く水また清いワイキキの浜辺ですと歌って、ハワイの旅行を礼賛して歌った歌ですね。『麗しき神おはせしか青き空水また清しワイキキの浜』。17、18はハワイの旅行詠で、楽しく明るく歌っていらっしゃると思いましたね。
 それから20番。『さくさくと米研ぎおればアフリカの飢えたる子らの眼裏(まなうら)に立つ』『さくさくと米研ぎおればアフリカの飢えたる子らの眼裏に立つ』。お米を昔ながらに手でさくさくと混ぜて研いでいらっしゃる。そんなとき、ふとアフリカの子どもたちが飢えているということを考えて、そして飢えたる子らの顔が眼裏に立ったっていうのだから、テレビの映像で見た飢えた子どもたちなのでしょうね。飢えて、どうしようもなくて次々に亡くなっていく子どもたち。そんなテレビがしきりにこの頃映りますけれども。お米を研いでいながら、アフリカの飢えた子どもたちを思ったという歌ですね。
 眼裏というのはまぶたの裏ということで、目の裏に見えるような気がするということですね。立つ、は本当は見えないものが見えることを立つというのですね、現れる。『飢えたる子らの眼裏(まなうら)に立つ』、どんな場面でもこういうこと言えるかもしれないけれども、作者はたまたま快い音を立ててお米を研いでいた。そんなときに、アフリカの食べ物のない子どもたちのことが思い出されたということですね。『さくさくと米研ぎおればアフリカの飢えたる子らの眼裏に立つ』。しっかりと歌えていると思います。
 22番。『友訪えば薄紫のまろやかな葡萄の房に触りてぞみる』『友訪えば薄紫のまろやかな葡萄の房に触りてぞみる』。21番の歌から続けて読んでいくと、どこかに芝生を持った館があって、そこの館にお友達が住んでいて、多分、その館にブドウ棚があるんでしょう。そんな空想で22番を読みますと、お友達を訪問して、薄紫のまろやかになっているブドウの房に触ってみましたということになるんですね。
 友訪えばって、それでいいかなあと思ったりしたんですが。友訪えば。友を訪い、でいいかなあ、友を訪い。そうでなければ友の庭の。『友の庭の薄紫のまろやかな葡萄の房に触りてぞみる』。ブドウがふさふさと実っているのに、触ってみて、その感触を確かめたという意味ですが。友訪いてとか、友の庭のとかして。そこ、友訪えばではちょっと不安定かもしれない。『友の庭の薄紫のまろやかな葡萄の房に触りてぞみる』。
 触りてぞっていうのは強めの「ぞ」なんですね、強めるとき助詞の「ぞ」を使って、そして「ぞ」ときたら「る」と連体形で止まるという、昔は係り結びというのがあったんですけれども、今はあんまり使わなくなりました。ここの触りてぞは強めた言葉なんでしょう。『友の庭の薄紫のまろやかな葡萄の房に触りてぞみる』。「ぞ」を取ったらどうなりますか? 葡萄の房に。
 
A- 葡萄の房に触りても。
 
大西 触りてみたりくらいでもいいですね、触りてみたり。「ぞ」っていうのが係り結びで、こんなところに係り結びを持ってきちゃおかしいですよっていう批評が出たとしたら困るから。触りてみたりとすれば、そう非難されないで済むかもしれませんね。そっと触ってみたらブドウの実った感触が手に伝わってきた、そんな場面です。二首続けてみると、なかなかいいお家に住んでいるお友達がいて、ブドウも作っている、そんな様子が伺われますね。
 それから、24番。『妻よりもわれには古きこの湯呑み沈む茶渋を飽かず眺むる』『妻よりもわれには古きこの湯呑み沈む茶渋を飽かず眺むる』。このお湯呑みは、奥さんよりも自分にとっては古い湯呑みである。そう思って懐かしく古くなったこの湯呑みを使いながら、沈んでいく茶渋をしばらく眺めておりました、というんですね。愛用のお湯呑みなのでしょう。『妻よりもわれには古きこの湯呑み沈む茶渋を飽かず眺むる』。奥さんよりも古いっていうんだから、だいぶ使いこなしてきたお湯呑みなのでしょう。その茶渋を飽かず眺むる、しばらく眺め、飽かず、お茶をすすっていたという歌なんですね。これもいいですね。
 それから26番。『身まかりし嘆きのるつぼひつぎ打つとわの別れに泣き音忍びぬ』『身まかりし嘆きのるつぼひつぎ打つとわの別れに泣き音忍びぬ』。25番の歌で亡くなった人がいた。ご主人が亡くなったんだったかな。そして、その身まかりし、身まかるは、身がいなくなるということで、亡くなる、いなくなるという、死んでしまうということですね。亡くなった人の嘆き、その嘆きのるつぼのようになったひつぎ、そのひつぎを打つ。石であのくぎを打つ。とわの別れに泣く声を忍んでいた。声を忍んで泣いてしまったという歌ですね。
 泣き音忍びね、か。『身まかりし嘆きのるつぼひつぎ打つとわの別れに泣き音忍びね』。忍びぬ、じゃないでしょうかね、「ぬ」かもしれないですね。泣き音忍びぬ。『身まかりし嘆きのるつぼひつぎ打つとわの別れに泣き音忍びぬ』。「ぬ」のほうがいいみたいね。『身まかりし嘆きのるつぼひつぎ打つとわの別れに泣き音忍びぬ』。声を忍んで泣いていたということで。『身まかりし嘆きのるつぼ』という言い方はなかなか工夫して歌っていますね。人を喪った嘆きの、まるでるつぼのようなひつぎ。それを石を持って打つ時が来て、もう永久に会うことのない別れだと思って、泣く音を忍んで石を打ったという歌ですね。『身まかりし嘆きのるつぼひつぎ打つとわの別れに泣き音忍びぬ』、声を忍んで泣いてしまったという歌ですね。
 挽歌ですね。歌の根本にあるものは、相聞、若い頃の恋の歌と、そして、挽き歌、ひつぎを挽くときの歌、挽歌というものが、歌の根本に流れている、大きな歌のテーマですね。相聞の歌、若い頃の相手を選ぶ、生涯の伴侶を選ぶために恋愛をする、その恋愛の歌と、そして永久に人と別れなければならない挽き歌、ひつぎを挽くときの歌、挽歌というものが、大きな歌のテーマに、万葉集の頃からなっているわけですけれども、この25、26は挽歌ということになりますね。
 もう私など50を過ぎると、新しく会うことよりも別れることが多くなりましたね。次々に、親に別れ、友達に別れ、先輩に別れ。別れの季節だなということを50になってから感じて。結婚式のお祝いも呼ばれるけれども、お葬式に出る回数のほうが多くなる。別れの季節ということが、50を過ぎると感じられますけれども。挽歌というものを大事に歌うということも大切なことであると思います。もう若くなければ、相聞の歌もよう作れませんので。作ると相手は誰だということになって問題になりますので、なかなかよう作りませんけれども。挽歌をしっかりと歌うことも、歌詠みの一つの使命であろうと思いますね。
 それから28番。『月涼しすずろいでけり草野原あえかなる花忍びがに咲く』『月涼しすずろいでけり草野原あえかなる花忍びがに咲く』。月の涼しい夜、すずろな思いで、何ということもなくということでしょうね、すずろというのは、何ということもなく出ていった草野原、野原に、あえかな、かすかな花が忍びがに咲く、まるで姿を忍ぶように、隠れるようにして、その花が咲いていたという歌ですね。『月涼しすずろいでけり草野原あえかなる花忍びがに咲く』。
 少し歌い方、古風ですけれども、お月さまが出て涼しい感じの心地よい夜、そぞろな思いで何ということもなく、草野原に出てみたら、かすかな花がまるで忍ぶかのように咲いていたということで、月の夜の野原の様子を歌っていらっしゃると思います。『すずろいでけり』、『あえかなる』、『忍びがに咲く』、少し古語を使って古風にまとめていらっしゃると思いますね。月の夜のみやびやかな、作者の様子をしのばせ、そして草がつけているかすかな花にも、心を注いで歌ってらっしゃるのでしょう。
『月涼しすずろいでけり草の原あえかなる花忍びがに咲く』。人目を忍ぶように花が咲いている。これはちょっと相聞の歌の匂いがしますね。誰かとお会いしてるんじゃないかな、なんて思ったんですけれども。あえかなる花っていうのが、好きな人だったりすることないかな。『月涼しすずろいでけり草の原あえかなる花忍びがに咲く』。古風だけれども、月の夜の爽やかな様子を歌えている。
 それから30番。『六十年を過ぎて二度目の初出勤爽やかにして心ときめく』。これは、60歳を過ぎて再就職をして。
 
B- 先週やりました。
 
大西 やりましたか? この作者、きょう、いらしてないかな?
 
C- この前、出られないと言って、やっていただきました。
 
大西 そうですか。60年を過ぎて再就職をして、爽やかに出掛けていくという歌でしたね。
 それから、32番。『幽玄の境さまよう病む兄の何事かつぶやく姿痛まし』『幽玄の境さまよう病む兄の何事かつぶやく姿痛まし』。これはね、死と生の境ということだから、幽玄のでいいかなあ。普通はどう言いますか。幽明、ね。幽というのは暗くてかすかなことで、それに対して生きていることは明らかに生きていること、明るいことで、幽明の境と言うんですね、普通はね。幽玄というのはほら、お能の世界の、みやびやかな世界のことでしょう。幽明のでしょう、幽明。生と死の境をさまよっている。「幽」というのは暗いあの世、かくり世、「明」というのは明るいこちらの世。この世とあの世の境をさまよって、うつらうつらしているお兄さん。その幽明の境をさまよいながら、しかも何事かつぶやいている、病むお兄さんの姿。その姿が痛ましいんですね。
『幽明の境さまよう病む兄の何事かつぶやく姿痛まし』。もうこの世に帰ってくることはないのかも、(####@00:28:56~00:29:00)。みやびやかな、暗い、ものぐらい古典芸能のときによく使う言葉ですね。ここは『幽明の境さまよう病む兄の何事かつぶやく姿痛まし』。よろしいですね。
 それで、34番。『子守歌背に重かりし弟の逝かれてつらき胸の重さに』『子守歌背に重かりし弟の逝かれてつらき胸の重さに』。子守歌を歌って子守をしてあげた、おんぶして子守をしてあげた弟さん。その弟さんが亡くなってしまってつらいなあという歌なんですね。子守歌背に重かりし弟の、でいいかなあ。逝かれたんだから、「に」。子守歌背に重かりし弟に。『子守歌背に重かりし弟に逝かれてつらき胸の重さに』。ちょっと下の句、直したいね。どう直しますか。『子守歌背に重かりし弟に逝かれてつらき』。私は『逝かれてつらし胸の底まで』、と一応直してみましたけれどもね。胸の重さに。『逝かれてつらく胸のふさがる』とか、なんかそんな言い方してまとめたほうがいいかもしれない。『子守歌背に重かりし弟に逝かれてつらく胸のふさがる』。『逝かれてつらく胸の重たし』。