⑤B

 
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大西 『逝かれてつらく胸のふさがる』とか、なんかそんな言い方してまとめたほうがいいかもしれない。『子守歌背に重かりし弟に逝かれてつらく胸のふさがる』。『逝かれてつらく胸の重たし』。なるべく元の言葉を生かしたほうが良いかもしれませんね。『子守歌背に重かりし弟に逝かれてつらく胸の重たし』、重たさ。そんな中から作者の中で、作者がまた自分にふさわしい言葉を選んでいただくと良いですね。『子守歌背に重かりし弟に逝かれてつらく胸の重たし』。
 ともかく、つらいということを下の句で言いたいわけですね。そして『子守歌背に重かりし』、なんていうのは情景をしのばせてね、だいぶ年が離れていた弟さんだったんでしょう。だからおんぶして子守歌を歌ってあげた弟さんだった。人一倍かわいい弟さんだったから、亡くなられてとてもつらいわということを言ってらっしゃるのね。そのつらさをうまく下の句で言う工夫が必要だと思う。逝かれて、まではうまくいってるんですよね。『子守歌背に重かりし弟に逝かれてつらく胸のふさがる』、胸の重たし、いろいろな言い方ができると思いますね。
 それから36番。『雪野原ひた走りゆく汽車の中夫(つま)と並びし席は温かし』『雪野原ひた走りゆく汽車の中夫と並びし席は温かし』。「は」はいらない。そうね、そうすれば、字余りにならないで済みますね。『雪野原ひた走りゆく汽車の中夫と並びし席温かし』。ご主人と並んで旅行する、いい場面ですね。雪の中をひた走っていく列車の中なんだけれども、ご主人と並んでいると、座席も温まるような気がして、一人旅と違って本当に楽しいわという思いがしていますね。外は吹雪、雪野原。汽車の中はご主人と並んで、心温まる旅をしているということですね。『雪野原ひた走りゆく汽車の中夫と並びし席温かし』。よろしいですね。うらやましい場面。
 38番。これも終わったかな。『子らと住み半年を経て』にするんでしたね。『孫も』とするんでしたね。『子らと住み半年を経てようやくに孫も慣れしかわが膝に乗る』。
 それから40番。『見下ろして』。これもやりましたか、はい。「山萩乱れてることなんか、言ってる暇ありませんよ」って言ったんでしたね。
 
A- 「なぜかなんて言ってる暇ありませんよ」って。先生がおっしゃった。
 
大西 悲しいんだからね。それから、42番。『コスモスに羽を休めし赤とんぼ秋の日和を楽しむ如く』『コスモスに羽を休めし赤とんぼ秋の日和を楽しむ如く』。これは、秋日和の、小春日和のような日かなあ。コスモスに羽を休めている赤とんぼがいる。その赤とんぼの様子は、秋の日和を楽しんでいるみたいで、のどかで明るいわという歌なんですね。秋の日和を楽しんでいるのは、歌の上ではコスモスに休んでいる赤とんぼなんだけれども、それを一緒に楽しんで、明るく過ごしている作者の様子も伺われると思いますね。『コスモスに羽を休めし赤とんぼ秋の日和を楽しむ如く』。
 ここの中で、そう気にならないんですけれども、羽を休めし、秋の日和を、「を」が二つあることを、もしも突かれたらどうしますか。上の「を」を取る工夫をするとどうなる?
 
B- 休め居し。
 
大西 休め居し、だと過去になるでしょう。現在にするのには? そうです、『コスモスに羽休め居る赤とんぼ』、ね。そうすると、「を」が二つありますよっていう非難を、『コスモスに羽休め居る赤とんぼ』と、「を」が一つ取れるわね。そういう、人に付け込まれる隙を与えないように、なるべく歌っていくことね。「を」なんかはまだもう、二つあってもそうおかしくないんですけれども、何々は、っていうときね、はって書く「は」、あれは強い助詞なんですよね。あなたはそうするかもしれないけど、私はそうしない、という区別をするときに使う「は」なんですね。区別の「は」っていって、とても強い言葉だから、一首の中に「は」が二つあると特に言われます。「を」や「の」はまだあってもね、そんなに目障りにならないけれども、何々はっていうのはなるべく一つしか使わないことね、一首の中ではね。これは「を」が二つありますよっていう非難を避けるために、緊急避難をしなければ。そういうときには、一つ取る工夫をすればよろしいのね。『コスモスに羽休め居る赤とんぼ秋の日和を楽しむ如く』。それで十分で、現在の様子。羽を休めし、って言うと過去になるのね。休めたということになる。それよりは、休め居る、と現在にしたほうが、今の様子を表すのにいいでしょう? それで42番、優しい歌ね。
 それから44番。『彼岸会に訪いたる墓所に一本のこぼれ種より咲きし鶏頭』『彼岸会に訪いたる墓所に一本のこぼれ種より咲きし鶏頭』。お彼岸で、秋のお彼岸ね、お参りに行ったお墓、そこにたった1本のこぼれ種から咲いたケイトウが生えていた、という歌ですね。これは、咲いているのは何本? 1本かな。1本しか咲いていないから、こぼれ種から生えたんだなと思ったのかな。『彼岸会に訪いたる墓所に一本のこぼれ種より咲きし鶏頭』『彼岸会に訪いたる墓所に一本のこぼれ種より咲きし鶏頭』。だんだん分かってきた。1本しか生えていないんだ。ああ、これはこぼれ種から、どっかからこぼれてきた種で生えて1本しかないんだなあと思った、らしいですね。『彼岸会に訪いたる墓所に一本のこぼれ種より咲きし鶏頭』。
 どうするか分からないんですけれども、『彼岸会に訪いたる墓所に鶏頭は』と、そこへケイトウを入れたらどうなりますか。『彼岸会に訪いたる墓所に鶏頭は』。『こぼれ種よりひともと咲けり』、のほうが落ち着くかもしれない。名詞止めにならなくて済むかもしれないね。名詞止めっていうのも非難される種になる言葉ですから、『彼岸会に訪いたる墓所に鶏頭はこぼれ種よりひともと咲けり』。『彼岸会に訪いたる墓所に鶏頭はこぼれ種よりひともと咲けり』のほうが落ち着くかもしれないね。1本しか咲いていないところを見ると、こぼれ種から咲いたらしいわと思って、それを眺めたお彼岸のお墓、ですね。
 それから、46番。『断りて帰り来たるも迷いあり庭に降り立ち落ち葉焚き染む』『断りて帰り来たるも迷いあり庭に降り立ち落ち葉焚き染む』。焚き染むっていう言葉、どうでしょうね。何かを断って帰ってきた。帰り来たるもというのは、帰ってきたれど、ということで、帰ってきたけれど、迷いがまだある。断ってよかったのかしらと思う迷いがある。そんな迷った気持ちを持って庭に降り立って、何はともあれ落ち葉を焚いている、というんですが。焚き染めるという言葉を辞書で引くとね、お香を焚き染める。昔の人が戦場に行くときに、お香を焚いて、よろいかぶとにお香の匂いを染ませて出ていった。それから源氏物語などでも、お姫様が香を焚き染めて、そして相手を待つというような場面がある。焚き染めるということはそういうときに、お香を焚いて衣に染みさせるということが焚き染むなんですね。これは焚いたんでいいんじゃないかな、ただ焚いた。さ、どうする? 落ち葉を焚けり、とか、焚きぬ、とか。落ち葉を焚けり、焚きぬ、どちらでもいいですが。『断りて帰り来たるも迷いあり庭に降り立ち落ち葉を焚きぬ』、落ち葉を焚けり。
 そのとき、ずっと続いている状況を表すのが「り」という助動詞なんですね。だから焚けり、っていうと、焚いているところですというふうに、今までまだ続いている状況を表すのが「り」という言葉。だから、焚けり、のほうが続くかもしれないね、『落ち葉を焚けり』。そうすると「り」と上の、迷いありの「り」と、「り」が重なるなと言われる可能性があったら、焚きぬ、とするわけね。『断りて帰り来たるも迷いあり庭に降り立ち落ち葉を焚きぬ』のほうが落ち着くかもしれない。
 私がこうやって何度も何度も詠むのはね、歌の調べっていうことを調べるためなんですね。調べを調べるために詠んでるんですね。皆さまも、歌を自分で作られたら、声に出してできれば詠んでみるとね、歌の調べを調べることができる。変なところがあると、必ず詠みづらいんです。詠みづらかったら、どっかおかしいんだなと思って作り直していく。また詠んでみる。そうすると、滑らかに詠めれば、調べができているわけですし、それから音が重なっておかしいことも、声を出して詠むと分かってくることがあるんですね。声を出して詠むことが大事だから、一生懸命、私、何度も詠むんですけれども。詠んでいるうちに調子が出てくる。『断りて帰り来たるも迷いあり庭に降り立ち落ち葉を焚きぬ』。そのほうが良さそうですね。
 それから、これは、断ってきたけれども迷いがあるという、よくありがちな日常のことですが、断っても断らなくても、人間迷うものですから、そういう迷う気持ちを落ち葉を焚くことで表しているわけですね。
 48番。『紫の朝顔の花柿の枝に伝わり咲くも鮮やかなれり』『紫の朝顔の花柿の枝に伝わり咲くも鮮やかなれり』。紫の朝顔の花が、柿の枝を伝わって咲いていて、とても鮮やかで美しいですという意味なんですけれども。朝顔の様子をよく見て歌おうとしているんですけれども、鮮やかなれり、これが文法違うんだね。他に言い方ありません? 『紫の朝顔の花柿の枝に伝わり咲くも鮮やかにして』、それから? 『紫の朝顔の花柿の枝に伝わり咲くも鮮やかにして』、鮮やかに見ゆ。
 「り」という助動詞は、さっき続いて、いい言葉で、使いやすい助動詞だって言ったんだけれども、四段活用の言葉にしか続かないんですね。鮮やかなり、っていうのはラ行変格活用するものだから、「り」に続かない言葉なんですね。それで、文法的に間違っている。「り」っていうのは使えない。鮮やかに見ゆ、くらいで良いかな。『紫の朝顔の花柿の枝に伝わり咲きて鮮やかに見ゆ』。鮮やかに見えています。咲くもってあるもんだから、鮮やかに咲くとは言えないでしょう。それで難しいのね。『紫の朝顔の花柿の枝に伝わり咲くも鮮やかに見ゆ』。咲いているのも、という意味ですね。伝わり咲きて、でもいいと思う。『紫の朝顔の花柿の枝に伝わり咲きて鮮やかに見ゆ』。咲きて、でもよさそうですね。いろいろにやってみて、一番ふさわしい表現を作っていくということですね。『紫の朝顔の花柿の枝に伝わり咲きて鮮やかに見ゆ』。そんなとめ方でいいでしょうか。よく見て歌っていらっしゃいますね。
 それから50番。『一人来てカトレア柄のスカーフ買い五十路半ばの誕生日終わる』『一人来てカトレア柄のスカーフ買い五十路半ばの誕生日終わる』。作者は50代の半ばにいらっしゃるようですが、誰も祝ってくれないし、ただ1人で知っている誕生日、1人で来てカトレアの柄の美しい華やかなスカーフを買いました。たったそれだけできょうの私の誕生日は終わりです、という歌なんですね。『一人来てカトレア柄のスカーフ買い五十路半ばの誕生日終わる』。
 誕生日終わるというところが字余りで嫌なら、誕生日終ふと。終えん、終えたり、終ふ、でもいいですよ。終えん、終えたり、終ふ、と活用する言葉だから、『誕生日終ふ』。『一人来てカトレア柄のスカーフ買い五十路半ばの誕生日終ふ』。50を過ぎたりすると、夫も子どもも誕生日を覚えていてくれない。せめて1人スカーフを買う。しかもカトレアの柄の美しいスカーフを買って、誕生日を自分で祝ってみるほかはなかったという、50代の人の誕生日。『一人来てカトレア柄のスカーフ買い五十路半ばの誕生日終ふ』でいいんじゃないでしょうかね。いい歌ですね。
 それから、52番。終わりましたっけ? あんまりむごく言わないで、優しくしたほうがいいって言いましたか、はい。
 じゃ、一通り終わったわけですが、質問がございましたらどうぞ。
 短歌入門講座なんていうところへ行ってみますとね、日本人であれば、日本語を知っていれば、誰でも歌はできますよっていうところから出発するんですけれども、いざやってみると難しいものですね、歌っていうのはね。そして今、特に難しいのは、文語っていうものがだんだんなくなってしまうことなんですね。そして、新仮名遣いになってしまって、新仮名遣いでは文語っていうのはなかなか表現できないんですね。そういう言葉が今、非常に変化している時代。
 そして、横文字が溢れていますでしょ。私はテレビのコマーシャルを聞いていて、英語の歌が出てきて、意味がわかったためしがないの。何のことだか分からないけどもどうもバターの宣伝してるらしいとかね、そういうことは分かるんだけれども。言葉が入り交じって、国際的になってきていますからね、日本語がどんどん乱れていっているわけですけれども。そんな中で正しい文法を使って、文語で表現していくってことはどんどん難しくなりつつあります。
 そんな中で、一つの古典的な、千何百年もの歴史を持った歌を作るってことは、一種の抵抗なんですね。そういう世の中の移っていくことに対して、抵抗しながら自分自身を形成していこうとする、抵抗として意味があると思うけれども。それだけに、自由詩にいってしまえば何行でも書けるわけだから、自由なんだけれども、それを抑えて、あえて五七五七七の定型によって歌を作っていくっていうことは、非常な抵抗、世の中の流れに対して逆らうことなんですけれども。それだけにいろいろな波紋も生じるわけね、逆らっていくわけだから。
 それをあえて、しっかりとやっていこうとするのには、やっぱり、持続的な、長続きのする努力が大切だと思うんです。誰にでもできるけれども、奥は無限に深くてね、なかなか上等な歌っていうのはできないものなんですね。この中で上等な歌と思うのありましたか。フフフという人もいますけれども。
 やっぱり『媒介の蝶も来ずして』なんて10番の歌なんか、うまいんじゃないかな。4階のベランダ、ね。それから、10番の歌などはうまいですし、それから、13番の歌なんかも、『愛さるる幸せを忘れしわがほほ』なんていうのも、女の人の悲しみが出ているしね。20番の歌でも、『飢えたるアフリカ』なんていうのもうまく歌えているし。それから24番の歌ですか、茶渋の歌。それから30番の、きょう読まなかったけれども、二度目の出勤。それから、39番の恩師の便り、『暗記するまで読みふけりたり』なんてのも、気持ちがよく出ているしね。43番の茄子の残り花を小鉢に張った、水に浮かべたっていう歌もよくできてるし。それから終わりのページでは、彼岸花が皇居の土手に幻のように咲いている、なんていうのもいいし。きょうの歌では、カトレアの柄のスカーフなんてのも、五十幾つになった人の誕生日の様子が出ていたりして、なかなか首を振るほどではございませんでしたよ。いい歌もございました。
 いよいよまた、いい歌をお作りになりますように、お願いいたします。これで終わります。
 
一同 ありがとうございました。
 
(了)