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(無音)
大西 ただいま、ご紹介にあずかりました、大西民子でございます。ちょうど1時間ほど前、44年ぶりに校門をくぐってまいりました。私が卒業いたしましたのは、昭和16年の3月でございましたから、44年の歳月が流れました。44年ぶりの校門、胸がいっぱいでございました。女学校を卒業してから44年もの歳月が流れましたが、その間にいろいろな人生の体験をしてまいりました。そして、思い返しますと、女学校の頃、何気なく口ずさんでいた校歌のひと節、雪間に匂う白梅の清き操はその心、この当時は何気なく口ずさんでおりました校歌のひと節に、どんなにか励まされ続けてきた歳月であったということを思わせられております。
私はこの女学校を昭和16年に出ますと、奈良の女高師に入りました。そこで、4年間の学業を終えると、いったん岩手県に帰って来て、釜石で女学校の先生を5年ほどいたしました。その間に知り合った工業高校の先生と結婚いたしまして、しばらく釜石におりましたが、やがて2人とも文学が大変好きでございましたから、何とかして東京に出て、本格的に文学を勉強したいと思うようになりました。そして、昭和24年の春、2人で埼玉県まで出てまいりました。埼玉県の教育委員会に2人の仕事が見つかったのでございました。2人とも教育委員会で働きながら、文学の勉強に取り掛かったのでございました。私のほうは木俣修という立派な先生につくことができまして、順調に歌の勉強を始めました。しかし、夫のほうは小説家になりたかったのですが、いい先生に巡り合うことができず、また、大都会の誘惑にも負けて、間もなく挫折したようでした。
昭和30年、その当時はまだ蒸発したというような言葉もなくて、家族が突然家に帰ってこなくなることなど、めったにないことだったのですが、夫は朝、勤めに出たまま、突然帰ってこなくなりました。私がちょうど30歳のとき、来る日も来る日も、待っても夫は帰ってきませんでした。それから10年の間、ちょうど私が30歳から40歳になるまでの10年間でございましたが、毎日夫を待ち暮らす日が続きました。私は、来る日も来る日も夫を待ちながら働き、そして夜は歌を作り続けておりました。いつかは必ず帰って来てくれると信じようと思って、待ち続けていました。そして、10年たったある日、職場の私の所へ夫が訪ねてきました。帰ってくる決心でもしてくれたのかしらと思って外に出て会いますと、私の顔を見るなり、夫は「10年もたったのだから、正式に離婚してほしい」といきなり切り出すのでした。私は驚いてしまって、相手の顔を見ました。その夫の顔は、私と別れていた10年の間、好きな女の人と暮らしていて、そんなに不幸せでもなかったはずだと思いますのに、夫の顔はやつれており、頭は白くなっており、そして靴を見ると黒い汚れた靴を履いておりました。目を移して自分の靴を見ますと、私は夏でございましたから、買ったばかりの新しい白いエナメルの靴を履いておりました。夫の顔を眺め、汚れた黒い靴を眺めている間に、私は10年待ったかいがなかったことを悟るのでした。仕方がないわと、私は思いました。そして、離婚をすることに承諾しました。
ただ私は、そこで二つだけ条件を付けさせてもらいました。一つは、夏になったら白い靴を履けるような、しっかりした生活を立て直していってほしいということ。もう一つは離婚した後も、大西民子という名前をペンネームとして使わせてほしいということでございました。相手にしっかりした生活をしてもらい、私は大西民子の名前のままで歌を作り続けよう、とっさに私は二度と結婚などはしないと決心しておりました。私の二つのお願いを夫は黙って聞いておりました。その日が、私ども2人の永久の別離になりました。その翌日、私は1人で大宮の市役所へ参りまして、離婚の手続きをいたしました。昨日はあんなに強気なことを言って、夫を励まして別れたはずでございましたのに、大宮の市役所の戸籍課の窓口へ行きましたら急に悲しくなって、声を上げて泣きだしてしまいました。私があまり泣きやまないものですから、戸籍係の職員は困ってしまって、「協議離婚ならそんなに泣くことないでしょう」と言うのでした。私もだんだん落ち着いてきて、それはそうだなと思って離婚の手続きを済ませることができました。その日から、愛し合って結婚した2人は全く別々の道を歩くようになったのでございます。
そんなことがあってから、また20年近い歳月が流れました。私は別れた夫のことなどなるべく考えないようにして、1人で働き続けて家族を養い、歌を作り続けました。そして、20年近くたったある日、夫は突然、埼玉県に現れて、夫の昔の友達を呼び出したのだということです。そして、その友達に、「彼女にもし会うことがあったら、白い靴のことを忘れないでいるからと伝えてほしい」と言い残して帰ったということです。その呼び出された友達は、白い靴のことを忘れないでいるなどと言われても、何のことか分かりませんし、そのまま忘れて私に伝えることをしませんでした。間もなく、仕事の関係で会うことがあったとき、その友達は、「あ、思い出した。大西さんに頼まれていたことがあったよ。白い靴のことを忘れないでいるからと言っていたよ」と伝えるのでした。私は、はっとしました。聞くところによると、夫は今、再婚した後3人子どもができて、今はどこかの県の高校の校長さんをして、子どもを育て妻を養い、立派に暮らしているという話でございます。別れた日に私が言った言葉、夏になったら白い靴を履ける生活、新しい白い靴を履くような人並みのしっかりした生活をしてほしいと、別れの日に頼んだことを、夫は忘れないでいてくれたのでございます。そして、しっかり今暮らしていることを、何とかして私に知らせたかったのでございましょう。私に会うのはつらくて、友達を呼び出して、白い靴のことを忘れないでいるからと伝えてほしい、そう頼んで帰っていったのでございました。そのことを聞きまして、私は心からほっといたしました。
愛し合って、男と女の人が結ばれても、何かの事情で別れなければならないことが、ないとは限らない。それは、世にありふれたことでございますが、2人が別れるとき、どちらが犠牲になることもなく、加害者にもならず被害者にもならず、2人とも平等の、五分五分の立場で別れなければ、しっかりした離婚だとは言えないと私は思い続けてきました。もし、夫が以前のような生活を続けているようなら、つらいなあと私は思うことでございました。今聞いて、立派に暮らしていると分かれば、それで2人とも被害者でもなく加害者でもなく、どちらも犠牲にならずに、立派に離婚を果たしたことになると、そう思って今では安らかな気持ちで、その2人の過去のことを思うことができるようになりました。私は、その夫を待ち続けた歳月10年間、別れた後の20年間、いつも雪間に匂う白梅だと思って、校歌のひと節に励まされ続けて生きてきたように思います。女学校時代に、何気なく教わっていたこと、そういうことが人生の長い歳月に、支えになって励ますことが、あるものなのでございますね。それが私の生涯の大きなドラマでございました。白い靴の思い出でございます。
そんな波乱に満ちた人生を私は送ってまいりましたが、女学校時代は本当に両親に守られて幸せいっぱいでございました。当時の女学生、今から50年ほども前になる女学生の生活ですが、それを振り返ってみますと、今のようにテレビもラジオもなく、週刊誌などもありませんでしたから、いたって情報が不足しておりました。今なら、小学生でも知っているようなことも知らなくて、いたって無邪気に過ごしていたものでございました。当時の思い出として一つ、まざまざと思い出す一つの会話があるのですけれども、ある雨の日の放課後、仲良しの4、5人で、がやがやおしゃべりしていますと、1人のおしゃまなお友達が駆け込んできました。「ねえ、大変よ、大変よ」と言うのでした。「なあに」とみんなでそのほうを振り向くと、お友達は「ねえ、男の人と手を握ると危ないんだって」と言うのでした。みんな不思議そうに「どうして」と聞くと、「男の人と手を握るとね、赤ちゃんができることがあるんだって」「本当、大変じゃない」「だからね、男の人と手を握ったら、大急ぎで洗わなくちゃならないんだって」「本当、でもお父さんやお兄ちゃんと手を握ることだってあるじゃない」「あ、お父さんやお兄ちゃんなら大丈夫なんだって」「は、はん」みんな感心してそのお友達の話を聞くのでした。それから私たちはバスに乗るときなども、なるべく男の人の手に触らないように体を固くして乗っておりました。昔の女学生はそんなふうだったんですね。性のことなど、両親も教えてくれませんし、学校でも教わらないし、週刊誌もないし、本当に何も知らない無邪気な女学生生活だったと、今もなお、ほほ笑ましく当時の会話を思い出すのでございます。
それから、私の大切な思い出なのですけれども、1年生の春の日、その頃お天気の日にはみんなお昼休みには外へ出て遊ぶことになっていました。私はその日、何となく1人で教室に残って、本を読んでおりました。すると、突然足音がしてドアが開いて、受け持ちの若い男の先生、石川先生とおっしゃいましたが、教室に入ってこられました。私が1人、本を読んでいるのを見て、大きな声でお叱りになりました。「どうして外へ出ないんだ」私はびっくりして、怖くなって「先生、私ねえ、受験勉強したいんです」そんなふうにしか受験のことも言い出せなかったのですね。先生はつかつかと近寄ってきて、私の読んでいた本をいきなり取り上げました。その本がもし雑誌だったり、マンガだったり、小説だったりしたら、先生はどんなにかお叱りになったことでしょう。でも、その本が幸せなことに、岩波文庫の芭蕉の『奥の細道』だったものですから、先生は拍子抜けなさったようでした。「難しいものを読んでるんだな、受験するってどこを受けるんだ」「私は奈良の女高師に行きたいのです」「女高師か、難しいぞ。この学校は4年制度だろう、5年制度の女学校と一緒になって受けるんだから、なかなか受からないんだ。この学校からは現役で受かった人なんか1人もないんじゃないかな」とおっしゃった後、「でも今から頑張れば大丈夫かもしれない、一つ頑張ってみるか」そう言って、私に岩波文庫を返して、教室を出ていかれました。私は外へ出て遊ばないで済んでよかったなと思うのでしたけれども、まだ1年生なのに、女高師を目指して受験勉強をしたいなどと、先生に申し上げてしまったものですから、困ってしまいました。何とかして頑張らなければならなくなりました。私は、両親に頼み込んで、下宿をさせてもらいました。両親のもとから学校へ通いますと、どうしても甘えてしまいますし、夜更かしもできないし、思い切った受験勉強はできないと思ったからでした。知り合いの家に下宿させてもらった私は、一心不乱に学校のお勉強なんかそっちのけにして、受験勉強を始めました。4年制度の女学校から受ける1年間のハンディを何とかうずめようとして、必死であった4年間だったと思います。
やがて、4年生の冬が来て、12月。受験の日が近づいてきました。私は、父に連れられて、東京の受験場まで参りました。旅館に着くと、私は早速、翌日の試験の英語の単語の暗記を始めました。父が休んでからも、その枕元にいつまでも起きていて、単語の暗記を続けていました。翌日は一番苦手な英語の試験でございました。自信は全くありませんでした。朝、出がけに父に申しました。「お父さんねえ、もし、きょうの英語の試験が駄目だったら、もうどうせ駄目なんだから、今晩、盛岡へ帰ってしまおうね、お父さん」そんな自信のない私を、父は黙って優しく眺めておりました。ところが、受験が始まって、試験の問題を開いたところでびっくりいたしました。夕べ暗記したばかりの単語が、たくさん出ていたのです。たくさん問題がありましたが、知らない単語はたった一つで、私は何とか英語の試験を切り抜けたようでした。帰ってくると、お父さんに言いました。「お父さんねえ、きょうの英語は何とかなったみたい。明日も受けてみようかな」父は「そうしな、そうしな」と励ますのでした。翌日は暗記物の得意でない、日本史の試験でした。私はまた、夜遅くまで教科書を開いて、古代史から読み始めました。そして、南北朝時代の北畠親房、『神皇正統記』という本を書きましたね。あの神皇正統記のところを読んでいるうちに、眠くなってしまって、机にかぶさって寝てしまいました。目が覚めたら、もう朝になっていて、しまったと思いましたけれども、もう間に合いません。その日も、恐る恐る試験場に参りました。ところが、どうでしょうか。日本史の問題を見たら、神皇正統記について、詳しく書けという問題が出ていたのです。私は、運が良くて、日本史もうまく切り抜けられたようでした。後の、数学、国語、作文なども何とかうまく切り抜けて、うまく奈良女高師へ入学できたのでした。私は、そのことを体験してから、試験を受けるのには最後の最後まで頑張らなければいけないのだと気が付きました。就職してからも、何度も試験がありましたが、私はいつも最後まで頑張って暗記をしたものでございます。
釜石の高校の先生をしていた頃も、受験する生徒があると、「最後まで頑張るんですよ、最後の5分前まで単語の暗記をするんですよ」と言って励ましたものでした。何しろ、前の晩に暗記した英語が、単語がずらりと並んで出ることだってあるのですものね。釜石二高から初めて東北大学にパスした学生がいました。その生徒は私の所へ来て、「先生のおかげです」とお礼を言ってくれました。これから、人生の中で幾たびも試練があると思いますが、皆さまも最後まで捨てないで頑張ることが大事なんでございますね。
最後になりましたが、この間、今の松永文部大臣、埼玉県出身の文部大臣の松永さんが、郷里の人の結婚式に招かれていらして、人生に大事な徳目を四つ挙げてお話しになったと伺いました。そのことについて、当日は結婚するお二人に向かってのお祝辞であったわけですけれども、そのお祝辞の言葉が人生全般にも当てはまるような気がして、私は身に沁みてそれを読みました。一番人生に大事なのは愛情である。ともかく、仕事を愛し人を愛し、心底から愛情を持って接すること、生きていくこと。ただ、愛情があっても、それを示す努力をしなければどうにもならない。なるべく、努力して愛情を豊かに持つこと。そして、どんなに愛情を持ち、努力しても、どうにもならないこともある。そのときも忍耐も大事だ、忍耐することも大切。愛情、努力、忍耐、そしてどんなに忍耐しても、その限度があって諦めなければならないときもある。諦めて出直すこともまた必要で、人生には1に愛情、2に努力、3に忍耐、4に諦めて出直す。そのタイミングがまた大事だということを、お話しになったそうでございます。
校歌に歌われた白い梅の花、雪間に匂う白梅のその花も一生懸命咲いて、我慢して雪の間に寒くても我慢して咲いても、いずれ時間が来て、風が吹けば散ることでしょう。そして、散ってまた来年の花を育てる努力を始めることでしょう。その出直すタイミングもまた、人生には大事なのでございます。私の60年の生涯を、半生というのでしょうか、振り返ってみましても、愛情、忍耐、努力、諦め、その四つの繰り返しであったような気持ちがいたします。高校時代に何気なく口ずさんでいた、そういう歌によって人生が励まされて生きていくということも世の中にはあるのでございます。そして当時、白梅校と呼んでおりましたが、その女学校の誇りに支えられて、雪間に匂う白梅と口ずさんで生きてきた、そういう気持ちがするのでございます。これから先も操正しく、雪間に匂う白梅のと歌いながら、私は歌を作り続けていきたいと思っております。
何か楽しい思い出でもお話ししてくださいとお願いされても、はるばる参りましたけれども、まとまらないお話になりました。少しでも印象に残ることがございましたら、幸せに存じます。きょうは本当にご卒業おめでとうございました。以上で終わらせていただきます。
(了)