[繋温泉の思い出]

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大西 繋(つなぎ)温泉の思い出。まだ私の小さかった昭和の初めのころ、庶民にとって温泉へ出かけるなどということは、なかなか出来ないことであった。大きな農家などでは収穫の終ったころに家中で出かけたりしたし、リウマチスや神経痛のお年寄りが湯治に出かけたというような話を聞くこともあった。
 まだ幼かった私には、くわしい事情はわからなかったが、父がどこからか「湯の花」を手に入れて来たことがあって、家のお風呂で匂いをたのしんでいるうちに、一度ほんものの温泉へ出かけようという相談になったものらしかった。
 山の桜の花が少し咲き残っている季節だったような記憶があるが、一家4人で、そのころ住んでいた盛岡市の郊外にある繋温泉へと出かけることになった。妹がまだ生まれていなかったから、私は6歳ぐらいであったろう。
 父はそのころ盛岡警察署の刑事をしていて忙しい一方の人であったから、親子4人そろっての湯治などは全く思いもかけないことで、母はいそいそと準備をした。お米に油、醤油にお味噌、おかずは現地でととのえることにして、風呂敷包みを持って出発した。
 途中までバスに乗って、あとはみんなで手をつないで歩いた。道幅いっぱいにひろがって歩いても、自動車1台通らない田舎道であった。私ははしゃいで、両親の間にぶらさがって叱られたりした。
 宿に着いて着替えした父は、横になって新聞を読みはじめたが、そうしたくつろいだ父の姿を、私たちは見たことがなかったような気がしてとてもうれしかった。母と九つ上の姉と私は、竹籠を持って山に入り、わらびやぜんまいを摘んだ。うこぎという木の芽もたくさん摘んだ。それらを母と姉が料理して食べた夕食がどんなにおいしかったか。3、4日はそうして親子水入らずですごすはずであった。私は父の晩酌のおしょうばんをして、唱歌を歌ったりした。
 しかしその夜遅く長距離電話で帳場へ呼び出された父は、事件がおこったことを知らされた。「やっぱりだめだったな」と父は言って笑った。翌朝一番のバスで盛岡へ帰らなければならない。しかし父は格別がっかりしたようすも見せなかった。そして母や私たちには、予定どおり何日か泊まって、ゆっくり遊んで帰るようにと言うのであった。ふだん、食事の途中でも、寝入りばなでも夜中でも、いやな顔一つ見せずに呼び出されて署へ駆けつける父を見馴れている私たちも、そのときはさすがにがっかりした。
 「お父さんがああ言われたのだから、ゆっくりしていこうか」と母は言って、父のたったあとまもなく、1人で浴場のほうへ降りて行った。しかし、お風呂から帰ってくると、上気した顔のまま「やっぱり私たちも帰ろうか」と言い出した。姉妹(きょうだい)も「うん」とすなおにうなずいて、持って行った食糧の残りを宿のおばさんに上げて身軽になり、帰ることになった。そんな父や母が、私は無性に好きであった。
 盛岡の近くにはこの繋温泉のほかに、花巻温泉があって、よくその名を耳にすることがあったが、あの幼かったころ父と母と一緒に繋温泉へ行ったことが一度あるだけで、どこへも連れて行ってはもらえなかった。もし両親が長生きして戦後を生きのびていたら、大きくなった子どもたちがきっと2人をあちこちの温泉へ連れて行ってあげられただろう。
 一人生き残った私は、勤め先の会議などで温泉に出かけることも多い。快い気分で温泉に浸りながら、私はいつもその昔の繋温泉の一夜を思い出す。忙しくてどこへも遊びに行けなかった父も、その父に添いとげた母も、やっぱりしあわせだったのだろうと思うと心が慰む。
 夢物語になってしまった。
 
(了)
 
(『温泉』1977年7月号 日本温泉協会発行 に掲載された随筆「繋温泉の思い出」の初稿原稿を読み上げたもの)