山名氏清は時氏の第四子、民部少輔、陸奧守に任ぜられ、丹波の守護職となり、【和泉の守護】屢々戰功を立て和泉の守護を兼ねた。【山名時熈等を伐つ】時に甥時熈、氏之等但馬にありて專橫の擧あるや、將軍足利義滿の命を受けて甥滿幸と共に之を平定した。【叛亂の動機】既にして時熈等潜に京師に入りて哀訴し、義滿亦之を憫んだ。偶々明德二年十月氏清洛南宇治に義滿を招請せんとして堺を發したがその際義滿は氏清に諭して時熈等を釋さんと欲するの意があつた。滿幸竊に之を聞いて、若し將軍より命あらば之を聽かざるを得ず、疾と稱して饗宴を中止せんことを氏清に勸め、氏清之に從つた。既にして義滿時熈等を釋すや、氏清義滿の處置を怒り、事を擧ぐるに決し、任所堺に歸り、兵を整へて八幡に陣した。【訣別の消息】次いで書を裁して堺の妻に送り訣別の意を示し、十二月二條大宮に進擊し時熈等と戰ふて之を破つたが、【戰死】一色詮範等來り擊つに及び遂に戰死した。明德の役卽ち之である。(明德記上、下)享年四十八。(或は云ふ四十九)法名を宗鑑寺と云つた。