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(一五四)中小路

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 中小路は堺の人、幼より明を失ひ、琵琶法師となつた。【蛇皮線の舶來】永祿年中(或は永祿五年)琉球から、蛇皮を以て張つた二絃の樂器が、堺に舶載された。(竹豐故事、近代世事談、本朝世事談綺)傳へ云ふ、中小路之を彈き試みたけれども、音律節に合はず、之を憂ひて長谷の觀音に詣で、一七日の間參籠して彈きやうを祈つたが、一日靈夢あり、階を下る時に、大中小三筋の絲が足にかゝつた。是より三筋の絲をかけて彈くに、微妙なる音色が出たから、それより一絃を加へて三絃とした。【三絃の始祖】それ故に三味線といふと。(大幣)其子孫は岡安氏を稱した。
 【異說】杵屋喜音談話(大日本人名辭書所引)に、岡安の先は梅津少將藤原雅安から出で、應仁中周防の大内氏に仕へんと欲し、船を艤して出帆したが、漂流して琉球に到つた。國王尚眞之を厚遇し、雅安の琵琶に堪能なるを知り、其臣阮成をして技術を修めさせた。幾何もなく其師里之子林子丘の技に優るゝやうになつた。國王は其女(宮嬪)を賜ふて二子を生んだ。後其次子を携へて歸朝し、八十餘歳を以て泉州堺に歿した。琉球に殘留した長男は林梅甫と稱し、彼國の樂師となつた。次子次郞梅は幼にして瞽となり、中小路と云ひ、三絃に妙を得た。門人に石村撿校がある。子岡安小四郞は始め中小路小吉といひ、父に從ひて三絃を能くし、後三河に徙つた。屢々德川信康に謁して、妙技を演じ姓を岡康と賜ふたと見えてゐる。