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(九)野中兼山

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 野中兼山名は止、字は良繼、傳右衞門と稱した。兼山は號で、後高山と改めた。【姫路に生る】父は勘解由良明、母は秋山氏、元和元年正月播州姫路に生れ、四歳の時、父良明は京都の僑居に歿した。【堺移住】こゝに於て母子は四方に流浪し、同五年遂に堺に移り住み、つぶさに艱苦を甞めた。然も十歳を過ぐる頃は、市井群童の間に嶄然として頭角を拔んで、其後儒學を修むるや、書中の記事悉く既往の經歷に反映し、早くも經世の志を起した。適々叔父野中直繼嗣子を失ひ、方に後嗣を定めんとせるに當り、叔父の同僚小倉少助政平、曾て堺にあつて兼山を見、其爲人を知り之を直繼に薦めた。【高知に往く】直繼喜んで言に從ひ、之を高知に召した。時に寬永四年十三歳であつたが、藩侯より部屋住領として五百石を給せられ、文武の道にいそしむことゝなつた。十三年養父直繼歿し、卽ち家を繼いで奉行となり、幾多經世の事蹟を殘し、寬文三年七月致仕して、香美郡中野に退隱し、十二月十五日卒去した。享年四十九。高知城南潮江村高見山に葬つた。(野中兼山