上條柳廬諱は公美、字は賓王、幼名山三郞、丹南侯の臣橫井彌三右衞門の子である。作之右衞門と稱し、門前に柳樹あるを以て、自ら柳廬と號した。堺奉行所附の與力である。【家系】上條氏は其先甲斐の武田家に出で、五世の祖可一に至つて始めて堺奉行所の與力となり、是より永住することゝなつた。柳廬の父彌三右衞門は、もと上條五兵衞の弟で、橫井氏の義子となつた。五兵衞の子兵太郞は、年少であつたので、同僚渡邊又右衞門の子又喜久をして家を嗣がしめ、之を作之右衞門と稱し、作之右衞門は又兵太郞を立てゝ家を繼がしめたが、不幸夭死し、柳廬を以て嗣となし、其女を以て之に妻はしたのである。(墓誌)是に於て柳廬は、作之右衞門を襲稱した。父彌三右衞門河内丹南侯の士であつた關係上、同鄕の儒醫橘庵北山元章に學んだ。(橘庵先生詩鈔下)人と爲り剛毅溫柔、兵は信玄流を學び、劒槍騎射兼ねざるところなく、【文武を兼ぬ】文は能く六經に通じ、博く群書を涉獵し、文章を善くし、詩賦に巧みで、又書畫を能くし、勤務の餘暇には、能く奉行所屬吏の子弟を教導した。致仕の後は、好んで一絃琴を玩び、以て無聊を慰めた。【墓所】文政三年七月十六日享年六十六歳病歿、遍照寺(櫛屋町東三丁)中の塋域に葬つた。墓碣は墨江靈松義讚の撰文である。(柳廬居士碑銘)
【柳廬の室】柳廬の室多鶴字を子禽といひ、平生繪筆に親み、能畫の譽れがあつた。(日本書畫名家編年史四)