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(一〇三)公巖

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 公巖海德院と號し、寶曆八年越後鬼伏西性寺に生れた。出羽淨福寺に入つて後其十四世となつた。二十歳京都に出で、近畿名德の門を訪ひ、安永年中成唯識論述記樞要、了義燈及び圓覺經疏等を硏究し、内典の外に又教化の道あるを知り、是より内外の兩典を兼修した。【皆川淇園に師事す】始め護園一派の學統を傳へ、後皆川淇園に師事した。經史を始め、諸子百家の説に及ぶまで造詣頗る深く、又詩文を善くした。【堺に来る】天明五年十月三井寺法明院の第五世顯道敬光が、堺に於て觀音玄義を講ずるを知り、來つて其説を聽いた。六年正月京都の寓居に於て、華嚴還源觀を講じ、翌七年末燈鈔、大原問題標諸義門問答決擇、唯信鈔文意を講じ、皆川淇園の墪に易學を學んだ。【常通寺に講說す】寬政元年正月堺常通寺(寺地町西三丁)に一念多念證文を講じ、尋いで三河、伊勢等を巡錫講説した。後淨福寺に歸院したが、六年正月上京して、華嚴、天台の祕奧を探り、普門律師に就いて、梵曆、天文の學を傳習し、十年寺の後苑に靜思觀を建てゝ隱栖の場とした。淇園は公巖の爲に其記を作つて贈つた。(公巖上人事略)【異安心】公巖は當時三業安心、或は意義募、又は法體募等種々の異安心のあるを慨げき、自ら之を統一せんとして、玆に一説を立て、出羽及び越後に至つて大に之を主張した。其説は彌陀を賴むのは、自語意の何れでもよい、唯大悲大願の他力に歸するを以て詮要とすると唱ヘた。卽ち信ずるもよい、賴むのもよい、畢竟是等は能入の門戸に過ぎない、要は彌陀願海に歸入するにあると唱道した。此説は畢竟法體募の系統に屬するもので、古來之を果海投入の異議と稱した。是に於て法主の糺問するところとなり、上京して之が辯明した。然し、享和二年六月、講師深勵本山の命を受けて調理するに會し忽ち改心し、(眞宗全史)文化二年許可を得て歸鄕、同九年以後各地を巡教した。(公巖上人事略)【河野進齋の詩文を撰む】同年は堺に駐錫したが、五月偶々淇園門下の同窓であつた、堺人、河野進齋の卒去に會し爲に碑文を撰んだ。(河野齋進碑文)公巖始め王義之草體の書法を學んだが、文政二年の春修眞院韜光より大師流の書法を傳へ、筆致遒勁の妙を得た。同四年八月十一日北國巡錫の途中、加賀の動橋で示寂した。世壽六十四。
 【著述】著述及び講演錄頗る多く、雜行雜修、改悔文、正信偈通元記、一念多念證文、憲章記、止觀大意、天怠佛心印記、一心三觀略述、六字釋手記、因願成就濟輔記、易行品、二河譬諭記、淨土論略要、改邪鈔、文類聚鈔行信記、步船鈔手記、一念多念分別事記、卷頭二首私考、末燈鈔錄、不如實修行五首和讚、廣文類深解科文、十字尊號略釋、序題門稿、御文大意、淨土眞宗教相第一聖淨一體圖説、梵曆筆記、眞義分錄、大棄義章、五教章、倶舍論、探玄記、法華義疏、華嚴大疏章、經史諸子等の義解には易、史記、左傳、五經、老子等の假名解、易原九疇説解等がある。(公巖上人事略)