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(一五九)中島長盛

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 【經歷】中島長盛通種太兵衞、貫齋と號した。其祖安西某は織田氏の世臣で、亡命して尾張の國中島鄕に匿れ、後大阪に來つて步卒となり、相繼いで大阪城高麗橋門を守つた。【七堂濱に砲術を試む】【中島流の始祖】長盛若冠武藝を勵み、殊に砲術を好み、(浪速人傑談上)武衞流を齋藤十郞太夫正房に、自得流を大野宇右衞門に、又佐々木浦右衞門に就いて佐々木流を學び、皆其奧旨に達し、且つ其術を練磨すること年あり、(武術流祖錄)又屢々術を堺七堂濱に試み、遂に砲術に中島流の一派を立てた。其技絶妙、享保中台命を奉じて演技し、上覽に供せられた。門下頗る多く、諸侯亦爭ふて長盛を聘し、其技を傳習せんしたが、肯ぜずして寶曆十二年正月五日病歿した。享年六十九。法號を曹源滴水居士といふ。【墓所】大阪生玉の北禪林寺に墓碑を存してゐる。(浪速人傑談上)