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(一九三)武田眞元

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 【堺の數學者】武田眞元初名は之孚、後主計正眞元に改めた。通稱は篤之進。(浪速人傑談上、浪花當時人名錄)塾舍を眞空堂と云ひ、司天臺の測量史であつた。(眞元算法)【經歷】堺に生れ、大阪安土町難波橋の邊に住した。【眞元算法】幼年上阪して御堂筋の疊表商に奉公したが、深く算術に志し、同地に於ける數學の大家阪正永の門人村井求林(伊兵衞)及び間重富(長涯)に學習し、遂に自學を立てゝ眞元算法といひ、更に一派を立てゝ武田流と稱した。(大日本數學史)道修町淀屋橋に徙り住し、名聲大に關西に鳴つた。【堺の門人】門人甚だ多く、堺の人で其名を列ぬるものに、吉田七郞兵衞(眞知)、苪屋太七郞(友旨)、前川文藏是永)等がある。(眞元算法)蓋し眞元法も關流の點竄術で、眞元算法四卷は男眞則(篤之丞)及び門人等の撰編校訂したものであるが、其實は眞元自身の心血を盡したもので、首めに題言一册を附して、數學の由來を略説し、本編三册は、八算、見一、開平、開立から、規矩術、點竄術等を雜へ記し、間々世俗の寓言中、算數に關するものを記入し、末卷には圓理の表を載せて居る。(眞元算法)此表は和田寧の九成表、東南表、八家表等を轉寫したもので、本書に之を言はずして、自己の發見の如く裝ふたものである。(大日本數學史)【榎豐後等の攻撃】文政の頃京都の算術家榎豐後は、照明算法を著し、東都の數學者木村定次郞は、溫知算叢を著して、眞元の算法楷梯、算法便覽等に、不合理の點ありとして、之を攻擊して居る。之に對して眞元の門下山崎眞辰は之が駁論を書いた。(眞元算法
 【圓通の說を排す】文政六七年の交、京都智積院の僧圓通(普通阿闍梨)大阪の寺院で、梵書の天文を講じたが、其講説を聽く者頗る多かつた。眞元之を聞いて大に怒り、元來梵曆の天文は、釋迦の經論より出でたる、荒唐無稽の妄説なりと、大に之を罵倒し、既に對論にも及ばんとしたこともあつた。弘化三年十二月二十六日歿した。【墓所】現大阪市南區下寺町光明寺に墓碑がある。(浪速人傑談上)【著書】著書に楷梯算法三册、算法極數法一册(寫本)、算法天正法一册(寫本)、算法便覽十册、理明算法五册、眞元算法四册等がある。(大坂名家著述目錄)