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(二一三)平間長雅

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 【家系】平間長雅は伊勢の人、父佐次右衞門貞方江戸に出で、鈴木信安の女を娶つて寬永十三年長雅を生んだ。(國學者傳記集成)【望月長好の門に入る】長雅長じて京都に出で、風觀齋良淳、六喩居士と號し、望月長好の門に入り、專ら歌學を修め、百人一首の傳授を受け、歌學を以て名を高うした。搢紳駕を其草廬に抂げ、從學の徒頗る多かつた。【門人】有賀長伯は門人中の逸材であり、堺の谷長右衞門亦傳授を受けた一人として師より傳へられたといふ神國正歌正統血脈之卷一卷がある。扶桑殘葉集九にも住吉社奉納百首和歌記が採記せられてゐる。長雅亦佛日寺慧極に參して居士號を受け、精剛院大喩居士元夢と稱した。(神國和歌正統血脈之卷)【堺天神に和歌百種を奉納す】元祿十五年堺天神の八百年祭に當り、長雅主唱して、公武貴賤を問はず百首の和歌を募つて之を同社に奉納した。(天神社慶長二十年亂後記錄)寶永七年七月二十七日七十五歳で歿した。(一説に八十二)(國學者傳記集成)【埋骨の地】平安名家墓所一覽には、洛北鷹峰に墓碑あるよしを記して居るが、堺市宿屋町東三丁金光寺址の一隅にも亦一基の碑あり、表に風觀齋六喩居士長雅と刻し、碑陰に庚寅(寶永七年)の秋吉旦に法雲明慧なる者が雅公六喩居士願修の塔に謁した旨の刻文が載つて居るのを見ると、恐らくは長雅埋骨の地であらう。【著書】著書に長雅集、百人一首祕註、詠歌大本、題讀曲切紙、風塵記、片岡山、富緖川、奉納千首等がある。(國學者傳記集成)