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(三〇四)三代目 竹本咲太夫

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 【堺の人】竹本咲太夫は堺の人、【油屋彦三郞】通稱を油屋彦三郞と稱した。【初代竹本春太夫の門弟】初代竹本春太夫の門弟で、竹本重太夫と稱し、始めて芝居に出勤した。【初代重太夫】卽ち初代重太夫である。天明四年其師の歿後、【三代咲太夫】三代咲太夫と改名した。同六年閏十月道頓堀東の芝居で、新物彦山權現誓助劒の序切と、九ッ目の口を語つた。寬政二年六月比良嶽雪見陣立の序の中と、三の口を勤めた。此頃大阪阿波座元讚岐屋町に住し、其より江戸に下り、同五年歸阪して各所へ出勤し、【堺に出演】又京都及び堺へも赴いた。同十一年七月道頓堀若太夫座で、繪合太平記新物五ッ目切と、十二段目の口を語つた。翌十二年から文化中に至る間、大阪の各座に出勤し、同四年九月大西座で、【最後の出演】新淨瑠璃八陣守護城十册目の切を語つたのが最後の出演となり、翌五年三月二日死去した。法名を釋淨薰といふ。【墓所】大阪市南區下寺町遊行寺に墓碑がある。【笑の名人】笑の名人で、若年の頃每夜堺の七堂濱に出でゝ笑の修練をなし、土地の人から七堂濱にはよく笑ふ化物が出ると、喧傳せられたといふ挿話がある。(淨瑠璃大系圖卷之六)