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(一七)小西行長屋敷址

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 【所在】行長の屋敷址は宿屋町大道東側に當る。行長の堺在住時代は比較的短く、記錄に傳はるものも無く、僅に其父如清の記事によつて之を知られる位である。【諸説】卽ち文祿二年には如清病を堺に養つてゐるが、(日本西教史)之とても確とした場所が示されてをらぬから、今の宿屋町、神明町等の諸説(堺市史蹟志料)を生じてゐるのであるが、一般には宿屋町大道説が有力である。【釣小垂屋敷】殊に宿屋町水帳を引用した堺史料類纂は右舊址を釣小垂屋敷と稱し、最初より父如清の有でなく、中頃其手に入り、後如清の分家治右衞門是に移り、彌左衞門と改め、八代の間傳領して文政九年に至つたといはれる所謂彌左衞門屋敷とは、元祿以前に成つた宿屋町古繪圖には大道東側北角にある同族治右衞門屋敷の南隣に當り、西方二間間口の屋敷で、【舊址】今日の宿屋町大道東側の十一番地ノ一馬場小次郞氏住宅表口の内二間が其間口址となる。治右衞門は一旦彌左衞門と改稱したが、記錄上兩者が同一時代に現れてゐるのは(元祿二年堺大圖繪)改稱後再び治右衞門の名を興した者があつた關係であらう。治右衞門屋敷は元祿二年の堺大繪圖には今の宿屋町大道東側の十番地ノ二よりやゝ南に當るが(小西行長宅址之記)前記宿屋町古繪圖には彌左衞門の北隣卽ち今の宿屋町十四番地眞下英藏氏住宅に當り、(宿屋町古繪圖)元祿圖には此屋敷も亦、彌左衞門屋敷と記されてゐる。田端篤三氏邸宅は元祿二年の堺大繪圖には小西理左衞門の住せる所で、宿屋町水帳には寬政十二年に至る迄其子孫此處に居住してゐるから、田畑氏の祖先が此屋敷を得たのは其より以後であらう。(小西行長宅址之記)