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新札幌市史 第1巻 通史1
(秋味の請負)
秋味
の請負 イシカリ川における
秋味
、すなわち「生
鮭
」交易の権利は、前述したように藩主に属しており、後述,元禄年代(一六八八~一七〇三)にすでにみられた、
秋味
交易の権利を特定商人に請負わせる方式は、次の正徳年代,「石狩
秋味
両艘百五拾両一ケ年被仰付」(万永代覚帳 元文五年)といった記述がみられるようになる。,イシカリの
秋味
請負の方式が、まとまった大きな金額の請負へと変化する傾向にあったのかもしれない。,表-1 西川伝右衛門家のイシカリ
秋味
船 年 運上金
秋味
船 享保18 両 139 (6軒共同) /
秋味
の請負
新札幌市史 第1巻 通史1
(商人の秋味船)
商人の
秋味
船 また元禄期には藩主直轄の交易地に商人が運上金を納めてアイヌと交易する商船を出していた。,これら藩士の監督下にある商人の運上
秋味
船は、イワナイのカンニンコルが弘前藩士に語ったように、勝手に網をおろし,
鮭
を自由に取っていたとは考えられないが、アイヌとどのような取引をしたかも不明である。,快風丸は塩を持参してきて、
鮭
一万本ほどを塩引にして積み帰っている。 ,享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』を見ると、藩主から特に許された大川の
秋味
鮭
は、需要も増しており、季節 / 商人の
秋味
船
新札幌市史 第1巻 通史1
(網漁法の導入と塩引鮭)
網漁法の導入と塩引
鮭
この時期において、もっとも目立った変化は、
秋味
漁における網の導入である。,文化四年(一八〇七)、ちょうど
秋味
漁の季節にイシカリを通った幕府吏員田草川伝次郎の『西蝦夷地日記』にも,尤
秋味
積入前は夷人の外は決て不相成。,このような、
秋味
漁の網の使用については、同行した近藤重蔵も、見逃してはいない。,)とあることから、いかに
秋味
漁での網の使用が多かったかが知られよう。 / 網漁法の導入と塩引
鮭
新札幌市史 第1巻 通史1
(商品流通にのった鮭)
天明元年(一七八一)、松前藩では、小林屋宗九郎の公訴をなんとか内済に持ち込むために、「石狩
秋味
惣船十五艘天明元丑年,すなわち、藩主直場所であるイシカリ
秋味
漁の経営を、借金の引当に請負わされたことになる。 ,小林屋は、『産物方程控』によれば、天明元年より
秋味
石高一万二〇〇〇石を一手に請負っていたが、手が回り兼,ちょうど、イシカリ夏商場所の運上金が増大したように、
秋味
漁においてもこの時期に大きな変化がみられた。,表-8 天明6年頃松前蝦夷地塩引
鮭
見積高
鮭
漁場 石数 疋数 イシカリ川 30,000石 150万疋 / 商品流通にのった
鮭
新札幌市史 第1巻 通史1
(鮭漁の発展と変わる漁法)
イシカリ場所経営は、前述したごとく疱瘡の流行による人口の激減といった事態が生じ、文政元年(一八一八)
秋味
運上,半減された運上金は、天保二年(一八三〇)には、全部で一〇〇〇両に切り下げられ、
秋味
が五〇〇石以上とれた,表3に示したのは、安政二年(一八五五)段階のイシカリ
秋味
漁場での糸大網引場・網数である。,表-3 安政2年イシカリ
秋味
漁場糸大網引場・網数 糸網引場 網数 糸網引場 網数 ①海岸 1,表-4 安政2年イシカリ
秋味
漁場アイヌ榀網(自分網)引場・網数 網引場 網数 ①ワッカヲイ 11統 /
鮭
漁の発展と変わる漁法
新札幌市史 第1巻 通史1
(役鮭)
役
鮭
イシカリ役所が網持出稼人に課した現物納の営業税を役
鮭
と呼ぶ。,これは改革が役
鮭
の確保を重要課題にしたことを物語り、イシカリ改革の理想と現実の差とみなされよう。 ,役
鮭
八カ条(市史一二五頁)は、並の大きさの
鮭
を塩引きにして納めるよう定めたが、出稼人の負担が大きすぎるとし,ではどのくらいの役
鮭
(御手料場分を含む)が改役所に収受されたのだろう。,村山家資料『石狩
秋味
鮭
惣引高幷歩訳共調子扣』による / 役
鮭
新札幌市史 第1巻 通史1
(熊野屋菊池忠右衛門)
明和二年(一七六五)、南部の山師熊野屋菊池忠右衛門は、福山城の表御門などの普請費用の引当としてイシカリ
秋味
跡買添船四,この
秋味
跡買添船というのは、イシカリ場所の一年間の商のうち、夏商、
秋味
、
秋味
跡買、
秋味
跡買添船、鱒といった,これにより、熊野屋は、イシカリ切囲と
秋味
跡買添船とを安永八年(一七七九)に取り上げられるまで継続している,ここでいう切囲とは、『松前産物大概鑑』によれば、
秋味
漁期に、網引場で直接船で買い上げて塩漬けにする塩引,熊野屋が、安永八年、イシカリの
鮭
切囲と
秋味
跡買添船の両方の権利を取り上げられたのは、次に述べる南部屋浅間嘉右衛門
新札幌市史 第6巻 史料編1
(〔村山家資料〕)
夷人より買入物幷売渡物直段書 安政二年乙卯四月 船皆具家木薪伐出しヶ所地名 年中漁業手配方仕来書幷
秋味
糸網夷人榀網員数書,当卯年鯡場出稼番人夷人名前書幷鯡網員数書 文化十一戌年 文政元寅年 御用通諸品直段定帳 場処境小名里数
秋味
鮭
漁業高見込, 〔御通行御用状譴之御人足 日々雇土人介抱書上 覚〕 〔春鯡出稼ヶ所幷人数書上 覚〕 〔
秋味
鮭
漁場
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地見回りとイシカリ場所)
2.
秋味
は領主直場所で積石高6,500石ずつ、栖原屋引請。,田草川ら一行が通ったイシカリは、ちょうど
秋味
漁の最中で、弁財船一五、六艘が川の中に繫いであり、川端には,イシカリは、鯡(にしん)のほか
鮭
が中心で、
秋味
はすべて藩主直場所で、石高にして六五〇〇石ずつ、年々栖原屋,栖原屋は川や浜でとった
秋味
を直接アイヌと交易するようになっていて、各場所の請負人たちは一向に手出しができない,アイヌが、船に
秋味
を荷物として積み込んでしまったあとは、どこでも自分稼の
秋味
漁が自由で、助け合って食糧
新札幌市史 第1巻 通史1
(東寗元稹のみたイシカリ)
イシカリ[夷百軒余、運上屋十一軒]蝦夷地
秋味
大猟の所、三、四十年以前には、十二はひ程有しが、近来不猟と,一ぱひと云は、千石積一艘の事にて、
鮭
の数五万本也。イシカリ川、大河にて、千石余の船も岸によつて繫ぐ。,このように、イシカリにはアイヌの家が一〇〇軒ほど、運上屋が一一軒あって、
秋味
漁もかつては一〇〇〇石積一二艘分
新札幌市史 第1巻 通史1
(疱瘡の犠牲)
運上屋が、すでに天明年代(一七八一~八八)から軒をつらねており、このほかに、弁天社、板蔵、茅蔵、切囲(
鮭
を,ところが、文化十四年の場合、多くの働き手を失ったことから、
秋味
漁にすぐさま影響をおよぼした。,尤
秋味
鮭
運上金弐千弐百五拾両之内千百弐拾五両、十三ケ場所夏場運上金六百七拾八両永百七拾五文之内三百三拾九両永八拾七文五分,六百拾六両弐分永百六拾六文七分上納可致 寅九月(村山家資料 道開) これにより、阿部屋は、「
秋味
鮭
運上金,猶又行衛為相尋番人共差遣飯料其外手当等為致候得共、右逃去候者とも迚も於山奥押なへて死亡仕候儀ニて、去丑年
秋味
漁之儀
新札幌市史 第1巻 通史1
(雇の実態と代償)
現在の札幌市域に包括されるアシリベツ、コトニ、オソウシ辺には、
秋味
漁が終了した時点で番人がそれぞれの番屋,
秋味
漁の場合はどうであろうか。,しかも、この
秋味
漁に従事した労働人口は、第二次幕府直轄直後の安政二年の場合、和人網引場一九カ所で三五七人,このような雇の場合、必ず「介抱米」五合、鯡、干
鮭
などが支給された。,また冬期の千歳川の場合、賃米六升と鯡・干
鮭
の類と出入時に定式濁酒と決まっていた。
新札幌市史 第6巻 史料編1
(件名目次)
八坂網調査の書状(年不明五月一〇日) 六 漁場経営策につき書状(万延元年五月九日) 七
秋味
漁入用金,簡 二二 道普請の廻文(同年七月) 二三 馬草刈取の廻文(同年七月二八日) 二四
秋味
漁業取調参集,(同年六月) 八 上トウヤウス
鮭
網二統建の届(同年六月) 九 シノツブト
秋味
引場返上願,同年八月) 二二 小商渡世願(同年八月) 二三 大工渡世永住願(同年八月) 二四
秋味
他密売買禁止,触(同年七月) 四六 西会所割渡請書 四七 地所上地再割渡請書(同年七月) 四八
秋味
引場拝借願
新札幌市史 第1巻 通史1
(場所請負漁業の終末)
終末 イシカリ改革は漁業のあり方を直接変革しようとするものでなかったとはいえ、イシカリの生産基盤が
鮭
漁,② 秋、イシカリで
鮭
漁をする。 ③ イシカリアイヌが生産した干
鮭
の集荷をする。 ,その
鮭
漁はどのようになされていたのだろう。,『
秋味
漁業手続アラ増』(石狩場所請負人村山家記録の内)『漁業手配方仕来書 上』(新札幌市史第6巻31頁,軽物
秋味
鮭
代 5,846 68.6 8,786 73.8 2,924 51.2 3,088 48.2
新札幌市史 第1巻 通史1
(商場ちよまかうた)
寛文年次以前の御手船によるイシカリの商物については明らかでないが、干
鮭
、獣皮など取引の夏船のほか、
秋味
塩引,の
鮭
船が出ていたことは『津軽一統志』などによって理解できる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(直䑺)
この特例は改革前から東蝦夷地出産の
鮭
を江戸や水戸藩那珂湊等へ送る場合に認められ、安政二年奥州諸藩が蝦夷地警衛,写真-8 平潟港(北茨城市)に入津した
秋味
船 直䑺による場合、イシカリで出荷物改めをして船役銭,また、改革により直捌となったので、イシカリ役所で使用する物品を運んだり、イシカリの役
鮭
を積み入れるために,出向く船からは役銭判銭を徴収しないことにし、役
鮭
を積んで入港した時の入口銭も免除とする。,こうした直䑺、沖の口税免除とともに、江差からイシカリへの大型船による出稼と
鮭
積出しの許可、帆待荷物の明文化
新札幌市史 第1巻 通史1
(十三場所の出産物)
まず海産物では、魚油、干
鮭
(からさけ)、鯡切込(にしんきりこみ)、身欠鯡、
鮭
鮓、数子、白子、串貝、干鱈,、
鮭
塩引、筋子、
鮭
披、
鮭
切漬の類である。,10束、筋子2斗入5樽、
鮭
披10束、椛皮20束、
鮭
切漬5樽 下カバタ 干
鮭
15束、鯡鮓2斗入2樽、鯡切込,元文四年(一七三九)の『蝦夷商賈聞書』では、「干
鮭
沢山」と、干
鮭
が第一であったが、天明末~寛政初年の『,松前随商録』では、「鰊、干
鮭
、鱒、梠縄、椛皮、鷹、鵰、鷲之羽、隼、熊胆、雑魚、
秋味
之類」という具合に、
新札幌市史 第1巻 通史1
(鳥屋場から商場知行へ)
商場となると知行主は米、酒、煙草類とアイヌの獣皮、干
鮭
などとを交易する夏商船を出していたわけだが、ただ,
秋味
船は藩主の権利に属していた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(集約化されるアイヌ労働)
それによればシママップ場所はむかしより五場所の合場所であり、海浜の漁が終わると、五場所のアイヌが干
鮭
とりにやってくるところであった,③鯡漁・
秋味
漁への労働力の集約 アイヌを、さらに場所外の労働へと押し出す原動力となったと思われるものに,
秋味
漁においてはどうであったろうか。,この時期の
秋味
請負のかたちは、前述したように、夏商、
秋味
請負ともに同一請負人が請負い、おまけに網の導入,又
秋味
漁事ヨリ引続永住ノ者モ有之。
新札幌市史 第1巻 通史1
(阿部屋の漁業経営)
図-4 改革前後の阿部屋の収支 収入をみると、改革前後で
秋味
鮭
代の占める割合が大きく変わったことが
新札幌市史 第1巻 通史1
(御救交易)
イシカリでの御救交易の状況については、串原正峯の『夷諺俗話』に、「今年イシカリ川にて
鮭
漁御用交易ありしか,イシカリ 此川幅凡百弐拾間程
秋味
之頃ハ大船数艘往返仕候。,した一行は、イシカリ平野とイシカリ川の発見とともに、田畑に適した肥沃な土地あるいは、イシカリ川の豊富な
秋味
新札幌市史 第1巻 通史1
(商場知行)
した記録を載せる『津軽一統志』によれば、知行主の積む交易品は、米、古手綿類を主とし、西蝦夷地からは干
鮭
(,東蝦夷地からは干
鮭
、干鱈、熊、鹿の皮、真羽、らっこ皮、鶴、鯨、塩引、
鮭
、赤昆布、魚油などがもたらされたとある,商場に毎年派遣される藩主の船数は「上の国之三十六、七、下の国之三十五、六此外に
鮭
船」(津軽一統志)とあるが,夏船は干
鮭
、毛皮類、数の子などの取引を主としていたが、のちに
秋味
、鱒、海鼠(ナマコ)などに新漁業を起こしたという
新札幌市史 第1巻 通史1
(出稼の諸相)
尤も平常は漁業なき処故、鰊時の如きは鰊場に赴き(但し人足を勤むるものを残し置く)、
秋味
時に帰り来る有様,また、
鮭
漁でにぎわいはじめる安政五年八月十一日、勝右衛門が浜名主として市中に廻文した一節には次のように,然に近年西蝦夷地不漁の場所も多(く)有之候に付、親妻子為介抱の
秋味
出稼に罷越候所、此節七百人余も相集り,、仍て是迄の通雇方給代の儀は、六月より
秋味
仕舞迄入込候由。,この中にも時季的に
鮭
漁とかかわった人は多かったであろう。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの機能)
(竹四郎廻浦日記) さらにこの石狩場所は蝦夷地において有数の
鮭
漁の地であったが、その運上金は金二二五,〇両、夏場
秋味
金一〇〇〇両におよぶと記している(再航蝦夷日誌)。
新札幌市史 第1巻 通史1
(大内清右衛門の偵察)
東蝦夷地直轄以後は、幕府による漁場開拓が盛んとなり、太平洋沿岸航路(東回り航路)の発達とともに蝦夷地産の塩
鮭
、,写真-2 天保12年那珂湊御船蔵(那珂湊市蔵) ところで、イシカリ場所の
鮭
がどのようにして仙台,ロシア人のカラフト、千島襲撃事件の際、水戸藩より箱館まで派遣された秋葉友衛門等によっても、イシカリ場所の
鮭
は,、「
秋味
ノコト石カリ極上也。
新札幌市史 第1巻 通史1
(図版・写真・表組一覧)
写真-3 安永3年の銘のある手水石 石狩町金龍寺 (404頁) 表-1 西川伝右衛門家のイシカリ
秋味
船,・網数 『村山家資料』(新札幌市史 第六巻)より作成 (528頁) 表-4 安政2年イシカリ
秋味
漁場,イシカリ湾 佐波銀次郎『北遊随草』 (安政4年) (767頁) 写真-8 平潟港(北茨城市)に入津した
秋味
船,と引網数 『
秋味
漁業手続アラ増』(石狩場所請負人村山家記録の内)、『漁業手配方仕来書上』(新札幌市史 ,漁獲高・役高 村山家資料『石狩
秋味
鮭
惣引高幷歩訳共調子扣』より (791頁) 表-8 ユウフツ場所からの
新札幌市史 第1巻 通史1
(田草川伝次郎)
折々
鮭
漁小屋あり。是はイシカリ川口よりサツポロ迄之間川丈け百里余之蝦夷集り
鮭
漁の所のよし。,
秋味
荷物積出し夫より銘々食料を取干上げ追々本宅へ戻る。此節もいまだ漁小屋に居るものも有之。,皆
鮭
漁せる様子にて
鮭
多く竿に掛て置。,一 産物 干
鮭
七万束 五百束二、三万束又去々年は八千束位至て不同の由。
新札幌市史 第1巻 通史1
(安政五年の調査)
〈トイヒラ〉
秋味
漁小屋一軒あり。,当地の在住やオタルナイ辺への出稼の者たちの
鮭
漁を禁ずるものである。
新札幌市史 第1巻 通史1
(新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)
一 イシカリの知行所持 知行所の宛行 鳥屋場から商場知行へ 二
秋味
船請負, 藩財政の窮乏 家臣の
秋味
船 商人の
秋味
船 第二節 場所請負制の成立と十三場所…,390 一 享保・元文期 イシカリ「場所」と
鮭
秋味
の請負 十三場所と夏商,復領の申渡し 知行と勤番 アイヌ支配の構造 二 復領下のイシカリ場所経営
鮭
漁,改役所の設置 新漁場の割渡し 二 漁業経営の多様化 漁獲高 漁法の工夫 役
鮭
新札幌市史 第1巻 通史1
(玉虫左太夫『入北記』(カラフトへ向かう))
サテ此ハツサフ川ハ小川ナレトモ深フシテ秋末(味)
鮭
数多ナリシカ、当節ハ只コウホネ、菖蒲ノミ生シ居ル。,此場所ハ、
秋味
ノミ故、秋ニナラサレハ出稼人来ラサルナリ。,上男一人ニ付 夷俵 七俵向 中男一人ニ付 同 六俵弐把 下男一人ニ付 同 六俵向 〆 一
秋味
引場普請手宛給料左,ツイシカリフト番家守一ケ年手当給料 夷俵 十俵向 一 シマヽツフト番所守一ケ年手当給料 夷俵 十俵向 一
秋味
糸引網雇蝦夷人手当給料幷, 土人給料幷交易ノ価調書 一 春給料 上造米 十八俵 中同 十七俵 女ノ子 十俵 一
秋味
給料
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編
(出典一覧(明治以前))
御雇医師・同並明細短冊(道文蔵) 212 荒井金助事蹟材料(道文蔵) 213 村山家資料「石狩
秋味
鮭
物引高並歩訳共調子控
/ 1ページ