この流れは、道内のみならず各地様相を変えながらも、全国的規模で認められる。それは、縄文中期末において東日本の内陸部を中心に遺跡数が激減すること、いいかえれば人口が減少したことに端的に示されている。すなわち、縄文中期の前半期は中部地方では植物処理技術の進展、海岸部では大貝塚を出現させるほどの組織的漁撈、貝類採取などのバック・ボーンがあって、人口とそれにみあう食料資源の安定した均衡状態が保たれていたものが、その後半期にはいると貝塚では一般的にシカ・イノシシの出土量の減少が認められ、それらが再増加するのは後期後半になってからという事実をみても、増加した人口を維持するためシカ・イノシシなどの主要な狩猟対象獣が乱獲され、そのため後半期には均衡状態が破壊されたと考えることもできる。これらの点について、安田喜憲は狩猟・採集社会のゆきづまりに原因があり、豊かな自然の恵みの下で発展した文化も、人口増加に自然の再生産が追いつかず、ついには崩壊した。そして、こうした自然と人間のかかわりの矛盾に拍車をかけたのが、気候の変化ではなかったかと述べている。
気候の変化については、道内各地の花粉分析をみても、少なくとも道東では、約三七〇〇~四〇〇〇年前を境にして、気候が冷涼化しはじめたという結果がえられ、また全国的にみても中期後半期の四〇〇〇年前頃から寒冷化が進み、後期から晩期にはその極点(マイナス一~二℃)に達している。