以上の事実からみて、市内域でこの時期に遺跡が逆に増加するのは、それらの立地している場所が一般的には生産性の低い火山灰性丘陵地帯とか海岸線がすでに後退した砂丘地帯であることからみても、狩猟対象獣の乱獲とか環境の変化にともない食料資源が枯渇し、そのためいままでより生活の条件の悪い地域を含めてより広い地域を生活圏にし、頻繁に移動しながら食料を獲得した結果として、縄文中期前半期の遺跡が少なかった札幌を含めた地域にも小規模ながら遺跡が数多く残されたと解釈することもできる。
そして、関東・東北地方、道南西部の太平洋側では、次の縄文後期の段階に入って貝塚が著しく増えるが、これらの貝塚が作られた期間をみても、中期後半の段階から後・晩期へと引き継がれた遺跡が多く、結局縄文中期後半期の胎動は、縄文後期的社会への変質過程とも解釈できるかもしれない。