中期から後期にかけての遺跡の減少は、札幌にのみ限ったことではなく、全国的な傾向として捉えることができる。
釧路市域では、中期の重要な遺跡が約六〇カ所以上数えられるのに対して、後期の遺跡は、約一〇カ所にしかすぎない。広く釧路湿原周縁や、常呂地方でも同じであるという。さらに本州でも、縄文文化の人口復元試算を行った結果によれば中部地方、関東地方では後期の人口が中期の一〇分の一にまで減少するといわれている。
このような人口の減少は、中期末からの気候の変動による結果と考えられている。中期における狩猟・漁撈・採集の発展は、人口の増加と定住をもたらし、おおいなる繁栄を誇っていた。しかし、植物質食料にもその食生活のおおくを依存していた狩猟・採集社会としては、人口がその飽和点近くに達していたために、気候の冷涼化による生態系のわずかな変化でさえも大きな打撃を受け、人口の激減を招いたと考えられている。
常呂地方の遺跡の詳細分布調査の結果、中期末のトコロ六類土器の遺跡の多くが、海岸線に分布し、海洋民族としての生業形態が明らかなのに対して、この後に出現するトコロ五類、羅臼式土器の遺跡は、内陸部に多く見られるようになるという。これは、冷涼化した気候による流氷の着岸により、海岸部の生態系が大きく破壊され、やむをえず内陸部の生活へと転換を迫られ、定住性の強かった生活が、食料獲得のために季節毎に移動する生活へと強制された結果であると考えられている。
札幌市内の遺跡の減少も、この日本的な気候変動のもとに現れた現象である。