ところで、三世紀半ばから八世紀前半にかけては古墳寒冷期といわれる長く厳しい低温多雨の気候が続き、気候環境が悪化した時期である。そのため、三世紀半ば以降の続縄文文化の人たちは新しい生活地を求め、当時人口が希薄であった東北地方にも南下し、その中でかれらはいくつかの新しい文化要素を取り入れながら、後の擦文文化と同様の分布圏をもつ続縄文後期文化(四~七世紀)を成立させた。さらに、『日本書紀』の斉明天皇四年(六五八)から六年の阿倍比羅夫の北征の記事に代表されるように、七世紀中葉から九世紀初頭にかけては日本の律令国家の東北経略が盛んになった時期で、それ以前からの交流を基礎に、これらの戦いを通して東北北部の文化とより深く接触し、数多くの新しい文化要素を積極的に取り入れ、擦文文化が生まれたものと考えられる。
したがって、擦文文化は七、八世紀頃に本州系文化の強い影響で短期間に成立したものではなく、続縄文文化の土台の上に三世紀後半から八世紀頃までの長い交流を通して、次第に擦文文化の基礎が形造られ、成立した文化といえる。