本遺跡は、北区北三三条西八、九丁目(北三三条地点)は高速道路の建設に伴い、また同区北三四条西七丁目(北三四条地点)は中学校のグラウンド改修工事に伴い、ともに昭和六十二年に発掘調査を実施したものである。北三三条地点からは、擦文前期から一部後期になる可能性もある土器群とともに竪穴住居跡が三軒みつかっている。この内、第一号竪穴住居跡はかまどの袖に使われていた半完形土器から判断して擦文中期後半の例かと考えられる。北三四条地点からは、二つの文化層が検出されたが、出土した土器はともに擦文後期の資料である。下層(Ⅴ、Ⅵ層)からはほぼ完形の甕形および坏形土器が合わせて十数個体と焼土が一七カ所検出され、上層(Ⅲ、Ⅳ層)からはほぼ完形な土器二個体と竪穴住居跡一軒、焼土二カ所がみつかっている。なお、現在分析中であるが、アワ、ヒエ、キビの栽培植物をはじめとして動植物遺存体も数多く検出されている。