擦文時代になると、続縄文後期の段階で認められた石器の器種の減少と器種型式の崩れの現象がさらに明確になり、砥石と若干の剝片石器を除いて石器はほとんどみられなくなる。このことは、石器にかわるべき道具として、金属器とそれで加工された道具(木器、骨角器)が主流をしめてきたことを示していると考えられる。
擦文時代の金属器の種類としては、武器として鉄製刀子(写真2)、蕨手刀をふくむ刀類、鉄鏃など、農耕具として鉄斧、鉄鎌、鉄製鋤(鍬)などとそれ以外として環、鑷子、銙(か)などがあるが、量的には刀子が圧倒的に多く、蕨手刀を含む刀類がそれにつづいている。それ以外は、このリストにない鉄製針、釘を含めてきわめてわずかである。
写真-2 鉄製品(K460遺跡)
この出土傾向の偏りから、藤本強も指摘するように、刀子以外の鉄製品が日常実用の道具として使われていたものなのかは疑問があり、擦文時代初頭前後に道央部を中心として数多くの鉄製品が墓から出土するのは、擦文文化のなかにあっては特異な現象で、このような鉄製品の入りかたは階層分化をもたらすほどの大規模な変革を擦文文化の社会のなかにもたらしたとは考えにくい。さらに、擦文社会における金属器の役割は、一般に「道具をつくるための道具」にとどまっており、そのため金属器普及量の小さい、もしくはもっていない集団でも、集団による共同所有・利用とか集団間の共同利用の形で金属器を使用することができ、これによって必要な直接生産用具は確保でき、金属器の増加により生産性を飛躍的に向上させ、富の蓄積・階層分化を促進させるための集約的な農耕の展開が遂に実現しなかったともいわれている。
ところで、道内の擦文時代の十数の遺跡から鞴(ふいご)の羽口と考えられる資料がみつかっている。この資料は、「小鍛冶」程度の鉄器の再加工が行われた可能性を示すものであるが、はっきりとした遺構はまだ検出されていない。