したがってこの時期、奥羽の蝦夷にも激しい動きがあり、七世紀に入ると陸奥では舒明九年(六三七)、上毛野形名(かみつけののかたな)が蝦夷と干戈(かんか)を交え、北陸道では大化三年(六四七)、渟足(新潟市沼垂)に柵(き)を設けて柵戸(きのへ)を置き(柵は木材を建て連ねて造った防衛施設で、柵戸は柵に居住する一種の屯田兵)、翌年には盤舟(村山市岩船)に柵を設けて柵戸をおき、北越の開拓にかねて蝦夷の防衛に備えているが、一方では懐柔策をとり、数千の帰属した越の蝦夷に対し、皇極元年(六四二)十月難波朝において饗応し、さらに斉明元年(六五五)七月、難波朝において北(北越)の蝦夷九九人、東(東陸奥)の蝦夷九五人を饗応し、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈(青森県の津軽)蝦夷六人に冠各二階を授けている。柵養の蝦夷とは柵戸に養われている帰順の蝦夷で、通訳、道案内として各柵にいたであろうとされている。