ルートの選定は、「書付」にも「場所詰の者共え取調申付置」とあり、イシカリ詰の役人が選定にあたったが、松浦武四郎の『西蝦夷日誌』には、「去年(安政四年)、飯田某(豊之助)と計(はかり)て開」くとあるように、飯田豊之助が担当した。豊之助はこの年(安政四年)四月三日に、イシカリ当分出役となり、六月十三日から立石元三郎にかわり、正規のイシカリ詰となっていた。
飯田豊之助は安政三年(一八五六)十二月十七日からはじまった、村垣範正の奉行廻浦に手付(てつけ)として随行し、廻浦中は諸所で山道調査の役にあたっていた。このような役柄が、イシカリ詰となってサッポロ越新道を担当することになったとみられる。島義勇(団右衛門)の『入北記』にも、「新道は飯田豊之助一人の働にて出来候趣」と記している。もちろん、ルートの選定に関し、武四郎の協力と助言をかなり得たとみられるが、二人で実地に踏査した形跡はみられない。