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塩噌の支給状況

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 塩については、大友の計画では一戸当たり五俵を初年に支給することになっていたが、現実には最大に支給されたものでも三俵の一戸にとどまり、二俵が一六戸と最も多く、一俵のみのものも二戸認められる。また別家した馬吉には味噌のみで塩の支給は見られない。支給年も二年間におよび、中には三カ年にわたり支給されたものも二戸ある。これら農民支給として購入した塩は(川船で水につかり不用となった五俵を含み)、総量四二俵である。また一俵単価を、慶応二年銭二貫七五〇文、同三年二貫八八〇文、同四年の上期(一~六月)三貫一〇八文、下期(七~十二月)を二貫八二一文として、総額は銭三五五貫一三七文であった。
 味噌も大友の計画より多少下回っての支給であった。その計画は一人一日二五匁として一年分一戸(家族四人として)三樽(一樽一二貫目入り)を初年に支給するものとされていたが、実際には一戸平均して二樽半を切っている。もっとも家族数によって差異があるのは当然としても(支給対象の一戸当たり平均家族数は、年度により異動はあるが、ほぼ四人である)、内訳は最高支給が三樽で一一戸、二樽半が一戸、二樽が二戸、一樽半が三戸、一樽も三戸ある。これら支給された味噌の総量は(腐品となった二樽を含め)四九樽であり、その一樽単価、慶応二年銭一〇貫二〇〇文、同三年と四年の上期が一一貫九〇〇文、下期は一〇貫二〇〇文をもって、総額銭三二四貫五九〇文であった。