米と同様に確保しなければならないものに、味噌・醬油・酒があった。これらのうち味噌は、「米噌」とくくられるごとく扶助米とセットで募移民に樽で支給するか、あるいは塩噌料として銀五分が支給された。官営による味噌製造所は、十年まで待たねばならないが、醬油醸造所の方は四年まず篠路に、ついで十年市中にも設置され、札幌での需要にあてた。酒は、寒冷地の通例から札幌の人びとに特に好まれた。十文字龍助の日記にも、人が集まると酒、それも濁酒を飲用しているさまが頻繁に出てくる。酒類は内地産のものが小樽経由で札幌へ多く移入され、大山(山形・秋田の二斗樽)酒・越後酒であった。札幌で売られる価格は、七年五月段階で越後新酒が一樽七〇~八〇銭、大山新酒が一円前後であった(十文字龍助関係文書 市史 第六巻)。六年段階で札幌には、濁酒渡世が三軒、居酒屋渡世が一軒、それに酒類を多く消費する料理屋・貸座敷渡世が全部で五一軒営業していたことからも飲酒が習慣化し、おのずと酒の消費量も多かったようである。
このほか、菓子、砂糖、金平糖等も小樽から商人が売りにきたが、金平糖は小樽で五斤入り一袋二円五〇銭であるにもかかわらず、札幌へ運ばれると一握り紙に包んで一〇銭ずつで売られたというから、商人は相当利益を得たことになる(札幌昔日譚)。しかし、一般庶民には縁遠い存在であった。