問題はキリスト教界内部にもあった。十九年から始まった一致教会と組合教会との教会合同協議は、二十三年不成立に終わった。長老制による教会政治を重んじる一致教会と、会衆主義で各教会の独立・自治を尊重する組合教会とは、協議の最後の段階で相容れなかった。このため、プロテスタント諸教派の幅広い合同はいっそう困難に思われた。以後、各教会は外国のミッションの系列に基づいて、教派であることを自覚した教会形成の道を歩むことになった。一致教会も二十四年から日本基督教会(にほんキリストきょうかい)と改称した。札幌においても二十年代に教派の活動が強化され、教派教会がつぎつぎと設立されるようになった。
また、二十年以降流入した新神学(ユニテリアン協会などの自由キリスト教)の影響もあった。新神学は三位一体論の教理や聖書の無謬性などを批判し、教理の絶対性を退けるなど、正統派の神学に対抗する主張を行った。神学的にも草創期であった日本のキリスト教界は、宣教師によって伝えられた信仰の根幹を動揺させられるところが少なくなかった。しかし、新神学論争は、信仰の内実を検証することによってキリスト教を思想的に強め、わが国の神学を進歩させることになった。このほか、十年以降流入した進化論も信仰と科学の関係について、神学の再構築を迫るものとなった。草創期のキリスト教界は、欧化主義を日本に導入するに当たっての開明的な担い手と目されていたが、はやくも国家や欧米からの新しい思想との対抗のなかで自己形成を迫られた。