札幌のプロテスタント教会は、この大挙伝道などの結果、次の時期に教勢をおおいに伸ばすことになる。カトリック教会・正教会も一九〇〇年代には教会活動を充実させる段階に入った。この十余年間は、キリスト教界全体の不振とともに、札幌の各教会にとっても草創期であったため、二重の苦闘を経験した。しかしその結果、札幌においてもキリスト教は市民のなかに浸透し、一定の定着をみることが出来た。もっとも、宮川経輝が前述の伝道集会(講演会)で、「神に事(つか)ふると君を敬すると衝突せさるを論し、信を基とせされは忠孝を完うする能はさる」(福音新報 第一八〇号)と説いたように、市民への定着はキリスト教が国家の枠組みに自ら位置づけることによって可能となったものでもあった。
宗教に関わる国家の施策では、まず三十二年七月に欧米列強との条約改定によって、内地雑居(開放)が行われ、外国人宣教師の札幌定住が容認されるようになった。反面、八月内務省令第四一号の施行で、地方長官に対する宗教宣布に従事する者の届出提出が義務付けられ、宗教上の会堂・説教所の設立には許可が必要となり、宗教活動を政府が掌握することになった。また、八月文部省訓令第一二号によって、私立学校においても宗教教育、宗教儀式を行うことを禁止した。同年十二月には、後に宗教団体法の成立(昭和十四年)につながる宗教法案が帝国議会に提出された(貴族院で否決)。翌三十三年三月の「治安警察法」によって政治結社への「宗教師」の加入が禁じられた。
これら国家からの制約は全国的な趨勢で、札幌に限るものではなかった。ただ、市民の有力者層にキリスト教が広く支持されていった札幌では、国家の体制や政府の施策(とくに戦争遂行政策)に対し、教会がそれを批判する立場をとることが難しくなった。このような国家の枠組のなかで、二十世紀には札幌のキリスト教は、札幌の教育や文化を担う存在として多彩な活動を展開することになる。