他方、この時期は農民自身の手による加工・販売組織の形成のための基礎がためが行われたといえる。そして、そうした組織化の中心となったのが農民ではなく搾乳業者であった。明治二十九年にビール粕などの飼料の共同購入のために申し合わせ組合が作られ、札幌牛乳搾取業組合あるいは月例会の日にちから「四日会」と呼ばれていた。当初は数人規模の小グループであったが、搾乳業者の増加のなかで大正期には五〇人をこえる組織にまで成長していた。その中心人物が宇都宮であり、彼を中心に月例会では技術に始まり処世術に至るまで活発な論議がなされたと記録されている(サツラク三十年史)。
この組織を母体にして、大正四年に札幌牛乳販売組合が設立される。すでに述べたように、大正三年に創設された北海道煉乳株式会社は、酪農民を株主に加えるなど農民会社的な性格を有しており、搾乳業者が特約的に原料乳を供給することは両者の共通する利害であったといえる。組合は市乳販売を行うとともに、その余乳を練乳会社に供給することになったのである。当初の組合員は五九人であった(創立二十週年記念誌)。
しかしながら、第一次大戦後の大正八年になると練乳事業も下降傾向をみせ始め、会社経営において製菓業者の発言権が強化されてくる。その結果は「会社と生産者は自ずから遊離するところとなり、会社もまた自然、本来の営利経営に堕し、乳価の如きも常に会社の指示する儘となり、生産者の蒙る不利益も、漸次強化さるるに至ったのである」(同前)。そこで大正九年、札幌酪農組合と改称していた申し合わせ組合を法人化し、有限責任札幌酪農信用販売購買生産組合を設立したのである。これは、全国初の産業組合法による酪農組合の誕生であり、後の酪聯、さらには現在の雪印乳業のひとつのルーツとなった。ただし、その本格的な活動は次の時期に持ち越されたのである。