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会議所の運営

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 会議所では、設立当初から運営ははかばかしくなかったようで、第一回議会が開かれた翌月の役員会では、早くも予算の欠損補充について討議されている(月報第壱号)。新聞にはこの後も経費の督促、未納額、未納人員、経費の欠損相当額の借入れ等、会議所の経営難についてたびたび報道されている。このため、四十年九月に創刊された月報は三カ月ごとに一回の発行とした(月報第壱号)にもかかわらず、わずか三号で廃刊となった。会議所ではこうした経費不足を解消しようと、定款の改正を行っている。四十一年二月には、経費の徴収はそれまで毎年五月に行っていたのを、四月と十月の二回行うことにし、四十二年二月には一通に付き五銭の督促手数料を徴収することにした。しかしその効果もみぬうちに、四十二年七月十日商業会議所法が改正(法律第三九号)され、会議所の運営はますます厳しいものとなった。
 改正の内容は、同法第三三条「経費又ハ過怠金ヲ滞納シ督促ヲ受クルモ尚之ヲ完納セサルトキハ国税滞納処分ノ例ニ依リ之ヲ徴収スルコトヲ得」から「経費又ハ」の文字を削るというものであった。経費とは、同法第三〇条で議員有権者が負担するべきものと定められており、徴収には国税滞納処分すなわち強制徴収が認められていた。会議所が経費の強制徴収権を失うことは、これまで以上の経営難を意味するものであった。
 この改正は、かねてからの全国の商業会議所で展開されていた営業税廃止運動に起因していた。日清戦後経営のために創設された営業税は(明29)、不当な課税額を理由に創設と同時に全国商業会議所聯合会の営業税改正運動をひきおこした。それにもかかわらず日露戦後、政府は更なる増税策として営業税の税率を引き上げたため、営業税廃止運動は激化し、全国商業会議所聯合会の政府批判は高まる一方であった。このため桂内閣は、経費の強制徴収権を剥奪することによって、商業会議所の弱体化を図ろうとしたのである(日本通史Ⅲ 国際政治下の近代日本)。
 商業会議所法の改正によって打撃をうけた会議所では、四十四年には経費の不足が活動に支障をきたすまでになっていた。以下は総会で経費の不足が調査活動を困難にさせていることが討議された模様である。
……従来諸般調査の不充分なる嫌あるは遺憾なりとの議論出でしに対し細川金両番外並に議長より会議所の現状に於ては僅かに規定の調査を遂ぐるの外なく広く各方面に渉りて調査するの困難なる理由の説明ありたると収入の部に於て経費怠納者の多きは幾分徴収督励の足らざるの致す所ならずや如何との質問出で前記三理事者より交々其の然らざる旨を弁明し斯かる現象を呈するに至れるは畢竟会議所の強制権を失ひし結果なりと……
(北タイ 明44・2・1)

 昨今会議所内には、調査活動が不十分であるとの指摘が出ている。これに対して議長と細川、金両書記からは、現状では規定以上の調査を行うのは困難であるとの説明があった。収入の部の議員からは調査費の不足は経費の滞納者が多いためであり、より強固な督促を行ってはどうかとの意見も出されたが、先の三人からはこのような状況に至ったのは、ひとえに会議所が経費の強制徴収権を失ったためであるとの弁明があった。しかしこの総会で対策が論議されることはなく、今後尚一層徴収に励むことが確認されたにすぎなかった。また、四十一年五月、経費の削減のために廃刊された月報は、その後しばらくは『札幌実業新報』という機関新聞に会議所議事を掲載していた。しかし四十四年にはそれすらもままならず、四十五年早々には総会で月報の廃止が報告された(北タイ 明45・1・19)。