ところで、滞納者がこれほど多かったのはなぜか。ひとつにはこの当時の商業経済力の弱さが考えられる。たとえば議員有権者の営業税の納税者数をみてみると、四十四年の札幌区内には営業税を納める者が九〇三人いた。これを税額により分類した人数の内訳が表24である。農商務省が定めた議員有権者の営業税の制限額は二五円以上(明39農商務省令第三四号)であった。この表によると、二五円以上の納税者数は四四九人であり、全体の半数にも満たないことがわかる。そこで「地方ノ状況ニ依リ前二条ノ制限ニ依リ難キトキハ定款ノ定ムル所ニ従ヒ其ノ制限ヲ設クルコトヲ得」(明35農商務省令第二三号)という規定に基づき、札幌ではその規定を一五円以上に低減した。制限額を低減することによって、議員になり得た者は二七五人にも上る。このことは、議員有権者が規定の制限額の中でも低額納税者に多かったことを示している。
表-24 営業税納税者の 税額による内訳(明44) |
10円未満 | 22人 |
10円以上 15円未満 | 157 |
15 〃 20 〃 | 161 |
20 〃 25 〃 | 114 |
25 〃 30 〃 | 95 |
30 〃 35 〃 | 68 |
35 〃 40 〃 | 60 |
40 〃 45 〃 | 34 |
45 〃 50 〃 | 25 |
50 〃 60 〃 | 35 |
60 〃 70 〃 | 21 |
70 〃 80 〃 | 23 |
80 〃 90 〃 | 14 |
90 〃 100 〃 | 10 |
100 〃 200 〃 | 42 |
200 〃 300 〃 | 11 |
300円以上 | 11 |
合計 | 903 |
『商工人名録』(明44)より作成。 |
今ひとつ、議員有権者の意識の問題がある。再三の勧告に応じず督促状を送り返してきた者の理由は、「自分は曾て商業会議所へ加入の届出を為したることなきのみならず営業上に関し何等会議所設置の必要を認めさるをもって経費を負担すること能はす」(北タイ 明45・7・13)というものであった。
会議所法の第九条には「帝国臣民又ハ帝国法律ニ依リ設立シタル法人ニシテ商業会議所ノ地区内ニ主タル営業所又ハ事務所ヲ有シ左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ議員ノ選挙権ヲ有ス」とあり、札幌においては議員の規定納税額を営業税並びに所得税は一五円以上、鉱業税は七円以上としていた。したがってこの規定に見合う者は、たとえ自ら届け出をしなくても加入を強制されていたのである。また活動面からいっても、設立当初から経営難にみまわれていた会議所にあっては、商工業者に会員たるメリットを還元するほどの成果は上げていなかったに相違ない。
事実、会議所が商工業の振興を促すべく活動を始めたのは、先の滞納者の弁明があった後であった。大正元年八月には工業の発展と一般社会の活性化をねらいとして、第一回工業品品評会が会議所の主催で行われた。経営難に直面していた時期でもあっただけに、費用は会議所経費の他は地方費と区費の補助、寄付金等で賄われた。四年には第二回工業品品評会が開かれ、五年からは二年後に控えた開道五〇年記念北海道博覧会に向けて、店頭装飾講習会、土産品品評会等、会議所が主催あるいは共催する活動が増えている。
以上、滞納者を多く生み出していた理由を、当時の札幌がもつ商業経済力と議員有権者の意識からみてきた。これらのことからいえることは、明治四十年代において滞納者が後をたたなかった理由は、会議所を支援するに足るだけの収益金をあげていた商工業者が少なかったこと、もうひとつは、会議所が少なくとも四十五年までは目立った活動を行うことができず、議員有権者に会議所議員としての意識を促し得なかったことが考えられる。