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社会主義者への迫害

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 札幌農学校の画学講師であった飯田雄太郎は、非戦論者であったため、主戦論の立場をとる新聞から攻撃され、農学校幹部からも言動を嫌われ、三十七年二月農学校を退職させられてしまった。三十八年に東京に戻り、エスペラント運動に参加した。
 大人に混じって非戦運動に参加していた山田ミツは、札幌高女の補習科委員をしていたが、学芸演習会(学芸会)での発表を禁止された。そのため、学芸演習会で「説話」発表をすることになった友人に依頼し、ロシアの女性革命家の話を発表してもらった。友人の「説話」内容が問題になり、背後関係が調べられ、ミツがそそのかしたことがわかった。この事件は道庁学務課や学校を刺激した。
 三十八年三月、庁立札幌高等女学校補習科を終えた山田ミツは、ロシアの軍艦が出没するという噂のあった利尻島の小学校へ赴任を命ぜられた(補習科修了者は道内の小学校の教師になる義務があった)。明らかに島流しであった。
 ミツは漁師の親方の家に下宿し、小説を読んだり植物採集をしてさびしさをまぎらわせた。夏目漱石の『坊ちゃん』に共感した。三十八年九月に発行された札幌高女校友会の『会誌』創刊号に、感傷的な文を三つも発表した。思想的な文は掲載を許されなかったからである。事情を知らぬ旧友は「山田さんは円熟した」「俗化した」などと噂した。
 北海中学校の教師であった桟敷新松も、学校幹部の教育方針と対立し、三十九年に退職した。