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その他の職業婦人

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 以上のような職業のほかに、日露戦争後さまざまな新しい職業が生まれている。もっとも目をひくと思われるものに、北門新報社が明治三十九年十月、「婦人記者見習」を女子事務員と一緒に募集したことである(北タイ 明39・10・28)。この募集広告に果たして応募者があったか定かではないが、婦人記者という当時最先端をゆく職業が札幌でも生まれる条件が整っていたといえる。

写真-16 北門新報社婦人記者見習募集広告(北タイ 明39.10.28)

 また、明治末にはすでに女子銀行員が働いていた。たまたま明治四十一年八月、北海道貯蓄銀行の経営が悪化し、休業にいたった。この時、「休業期間中女子行員の行うべく事務殆んど皆無なると、なるべく不用の経費節約の必要あるとにより、本店詰めの女子六名八月一日より開業にいたるまで臨時休職を命ず」と、まず女子行員を一時帰休させている(北タイ 明41・8・6)。景気の変動をもろに受け、大きく揺さぶられるのもまた女性であった。
 このほか大正期に入ると、歴史写真会札幌支部(南二条西四丁目)が女子外勤員を月収八円以上で募集したり(北タイ 大4・4・8)、美顔術・美爪術・洗髪を専門とする女性の職業も登場してくる(北タイ 大4・1・8)。
 七年には、日露戦争後札幌へ進出したミシン販売会社であるシンガー裁縫機械会社(北二条西三丁目)が男女社員を募集し、ミシンの普及販売に女性が一役かっているのが知られる(北タイ 大7・7・2)。また、この年中島公園を中心に行われた開道五〇年記念北海道博覧会に「女看守人」(コンパニオンの前身か)が採用されたり、札幌電気軌道(のちの市電)の電車客扱(車掌)にも女性が登場した。なお、畜産共進会、北海道物産陳列場、品評会には明治末から「女看守人」「女監視人」が採用されていた。翌八年には、女優志願者募集も行われ、また九年には薬剤師、歯科医師試験に女性が受験するなど確実に職域が広がっていたことが当時の新聞を通してうかがわれる。