次いで三十二年二月には、三五四八生(筆名)が『北海道教育週報』紙上に「図書館の設立を札幌区に望む」を発表した(北海道教育週報 第二一一号)。これは前年、『北海道教育雑誌』に掲載された文部省参事官寺田勇吉「通俗図書館を村落に設置するの必要」に触発されて寄稿したものである。三五四八生も、やはり札幌を「北海道の首府として中央政府の所在地として殷富繁栄の都市」と位置づけたうえで、「文明的の機関は大概具備」しているが、区営の施設は小学校と病院を除くと中島遊園地以外には存在しない事実を指摘する。そして、札幌区は「公共事業に冷淡なり」との評価を払拭する意味でも、図書館を設立すべきであると述べている。その理由に、図書館は「学生生徒のみに止まるにあらず、商家も工芸家も諸業衆庶の男となく女となく老若貴賎上下となく大なる利益を与ふる」というように、特定の階層ではなく広範な区民が利用できる施設であることを挙げている。三五四八生の意見には、図書館の設立を行政の課題として把握するとともに、施設の性格に着目した点に特徴があり、その後の公共図書館設立論の骨子が出そろっていた。
このように、安東や三五四八生は都市行政の課題(都市の体裁)として、公共図書館の設立を促し世論を喚起した。これは当時の札幌区民の要求を代弁したものと考えられ、明治三十年代の札幌区の就学率の高まりと決して無関係ではないであろう。ちなみに三十一年の就学率は北海道全体で六〇・四パーセントであったのに対して(文部省第二十九年報)、札幌区は七〇・七パーセント(男八〇・〇パーセント、女六一・〇パーセント)であった(北海道教育週報 第一八五号)。