書画会については前巻の時期から盛んに行われており、今のところ初出は明治五年七月である。書画骨董会等さまざまな呼称があるが、内容からみておよそ三つの型に分けられるようである。第一は地元の名士が集まって揮毫を行い清遊するもの。第二はやはり地元の名士が所蔵の品を持ち寄り展示するもの。第三は東京その他主として本州方面から書画家が来札して揮毫会を開催するもので、しだいにこの型が支配的になってきたと思われる。この場合、長期に滞在することも少なくはなく、地元に美術活動を起こすのにもある程度の影響をもたらした場合もあった。
第一の型である名士によるものは、あるいはかなり開催されたのかも知れないが、当時の新聞ではほとんどみることができない。今のところ三十五年四月に第二回の書画囲碁の会の開催が報じられている程度である(小樽新聞 明35・4・13)。むしろ札幌の住民であっても漢詩家で書家でもある新居湘香(漢詩の項で記述)のような、専門家というべき人物の揮毫会(明43・9・18)はあるが、これはむしろ第三の型に含まれるべきものであろう。
第二の型もやはり少ないが、若干みることができる。たとえば三十六年十一月十五日東京庵で開催された書画展覧会では出品書画六〇点余、「珍器骨董」一五〇余点で、書画には「明人于顥」の書、「明人天地山人」の水墨山水、「明人王鐸」の書幅、さらに探幽(狩野)、文晃(谷)などが地元名士である関場不二彦(理堂)などから出品され、縦覧人三〇〇余人あったという(北タイ 明36・11・17)。さらに四十三年早々に札幌同好会が設けられ、毎月一回各自所蔵の書画を展覧することとし、第一回を一月二十三日に開催した。同会は十月に第一〇回を開催しており、ほぼ明治末までは活動したようである。
第三の道外書画家によるものは、この時期に多く開催された。例を四十年九月に求めると、滞在して書画会を開いたのは倉田松濤(俳画家)、兼松盧内(南画家)、高荒芳洲、白須心華、大田原子恭、三好天山があり、うち倉田は半永久的借家に住居しているとされている(北タイ 明40・9・18)。また来札画家のほとんどは日本画であるが、三十六年八月には京都の洋画家小笠原豊涯が来札している(小樽新聞 明36・8・8)。さらに四十一年十月には書家西川春洞の来札を機に謙愼堂同窓会北海道支部を設置し、会則を定めて毎月一回作品を東京へ送って修正をうけることとした例もある。