日本は中国大陸と朝鮮半島の権益をめぐり、明治三十七年二月十日の宣戦布告の詔から講和締結がなる翌三十八年九月まで、熾烈な戦争に突入していった。日露戦争は、アジアの小国がヨーロッパの大国に挑むという元寇以来の「国難」とされていたが、それ以上にこの戦争はキリスト教国と神国、仏国との戦いという「宗教戦争」であり、絶対に負けられぬ一戦であったのである。それだけに寺院・仏教団体は熱い国家主義的なイデオロギーを横溢させながら、「宗教戦争」に向けて戦勝祈禱会、戦意高揚、戦死者追吊会、献金、軍人家族救護などの広範囲にわたる熱烈な活動を展開していった。
日本の仏教は、もとより国家安泰をはかる護国仏教として発展してきた。それだけに国家イデオロギーの役割を補完する性格が強かったのである。国家存亡の危機に直面した日露戦争は、近代に至っても日本仏教のこうした性格がいまなお失われていなかったことを示すと共に、さらには明治期になり国教の地位を神道にとって替わられた失地回復をはかるかのような、なおいっそう倍加した激しさで護国仏教が繰り広げられたのである。