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十五年戦争と労働者

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 十五年戦争がはじまると、軍需景気により復職したり、新しく就職する労働者が増加してきたが、それもつかの間にすぎなかった。日中戦争が本格化すると、せっかく就職した職場から戦場に動員される人が多くなってきた。
 物価騰貴に比べて、賃金は凍結状態が続いた。昭和十三年、ある市電運転手と電話局員は、警察官に、生活について次のように語った。
 現在市電乗務員の待遇は他に比較し実に劣悪で、初任給電車側一円、自動車側一円二十銭、女車掌五十五銭なるが、年に一回乃至二年に一回の定期昇給あるも其の高は微々たるもので、十年勤続しても一日一円三十銭乃至一円七十銭位のものなり。然し年功手当があるので幾分カバー出来るものの、事変前は兎も角高物価の今日では迚も生活は困難なり。従て従業員の間の不平不満は相当拡がり、何時でも罷業の準備あるも時局柄隠忍自重して居る様な次第なり。〔市電運転手〕
 私共雇員で初任日給は一円五銭、傭員は初任日給八十銭で採用になるのですが、昇給は仲々しません。夫れに仕事は平素の一倍半位に増し、従業員は応召や退職で不足して居るし、非番でも休めない状態なり。物価は騰貴して生活必需品に於て三、四割に及び従業員の生活は全く窮乏の極に達し居り、時局だから黙って居る様なものの平素であったら当然何か起きるものと思はる。〔電話局員〕
(昭和十三年自七月至十二月 社会運動情勢 札幌控訴院管内概況)

 労働者の不足、質的低下は日に日に顕著になり、女性、若年者が職場に多くなり、朝鮮人の連行が開始され、勤労動員が強制された。熟練工なら達成できるノルマも、未熟な人々には苛酷であった。賃金は据置きであり、不況期に短縮された労働時間は長くなりはじめた。軍需工場に指定されると、軍人が労務管理に加わってきた。工場の生活も「軍隊式」になってきた。