ビューア該当ページ

定山渓の土工夫争議

652 ~ 653 / 1147ページ
 昭和二年八月、定山渓の奥で土木工事に従事していた東京からの募集人夫が争議を起こした。土工部屋の争議といえば、集団逃亡か部屋つぶしであったが、この争議は一般の労働争議のように具体的な要求を掲げた争議であった。土工争議には珍しい統制のとれた争議であった。
 この争議を起こした土工夫は、部屋経営者が札幌職業紹介所に人夫の紹介を依頼し、札幌職業紹介所は東京地方職業紹介所に依頼したのであるが、東京地方職業紹介所は労働保護協会に廻し、保護協会と部屋経営者とが契約し土工夫が就労したという、複雑な紹介径路をたどっていた。
 七月九日に就労した二八人は、幹部の態度にあきれ果て、八月十日、一〇項目の要求をかかげストライキに入った。
一、世話役外幹部を解雇する事
二、食事に関し石黒の妻を解雇せしむること
三、班員中より幹部二名を挙げること
四、時間励行のこと
五、医薬設備の完成
六、毎月十五、二十五、の両日全班員に二円宛貸与すること(賃金より差引)
七、さがり金あるものにも毎月二円貸与すること
八、降雨の際休業のこと但し就業を望むものは一時間五分増
九、賃金の最低二円三十銭にすること
十、水中作業は一日七時間とすること
(樽新 昭2・8・13)

 この争議は、土工部屋の通弊である幹部やおかみさんの横暴を批判した画期的な争議であったが、全面的な勝利とはいえなかった(筆宝康之 建設労働経済論)。労働者の一部は現場を去った。