太平洋戦争開始直前の札幌市に設置された公区制度は、連合国軍による占領下にあった昭和二十二年(一九四七)三月三十一日をもって廃止される。ただし、公区及び連合公区が終戦直後から不要とされていたわけではなく、廃止に至るまでにさまざまな試みと挫折があった。
二十年八月十五日以降も、公区・連合公区を単位とする活動は継続されていたことが窺える。市内の各公区全般に関する状況は不分明であるが、新聞報道には活発な活動の例が散見される。例えば、山鼻南部連合公区では、同年十二月十九日に会合を持ち、食糧対策問題について協議している。その結果、「連合公区自体で主食糧の解決に乗り出すことにな」ったという(道新 昭20・12・21)。
市側でも、二十一年には「市公報附録として毎月四頁の『公区通信』を」発行・配布し、また「市からの示達事項などを敏速に公区及び一般市民へ周知せしむるため」に、道内発行の各新聞に「市役所回覧板」を掲載して「主として生活物資配給」についての情報を載せた(昭21事務)。このように、主に食糧配給など生活に直接関わる側面において、終戦後も公区・連合公区は機能していたのである。
また、市は公区などを市政執行の補助機関として引き続き利用しようとする姿勢も示した。そのため、終戦直後から公区・連合公区の代表者を集めた各種の会合が盛んに開催されている。例えば、二十年九月十九日には公区運営協議会が開かれた。これは、「終戦後ニ於ケル公区運営ノ動向ヲ明ニシ公区指導ノ態度ヲ一ニスル為」に開催されたもので、「連合公区長、公区長、婦人部長等三一五名」と市側から「課長以下全員」が出席したという(昭20事務)。ここでは、「公区の組織は…地方共同任務の遂行と市民生活の安定のうへから解体せず、むしろ任務の重要性を加へてきたので、その指導理念は終戦の詔書に基づくこと」とするという結論に達したという(道新 昭20・9・20)。
このように、終戦後も生活上の問題に関する活動を中心に、市・市民がともに公区・連合公区を維持し、活用しようとする姿勢を示していたのである。