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第一二回オリンピック大会の東京開催

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 札幌で冬季オリンピック大会が開催されるようになるのは、昭和十五年の第一二回オリンピック大会の開催地に、東京が立候補したことによっている。東京市長永田秀次郎は五年六月に、オリンピック大会の誘致を表明していた。この目的は第一に、十五年が皇紀二六〇〇年に当たっているのでその記念事業とすること、第二は、関東大震災からの復興事業が成り、「帝都復興」を世界に向かってアピールすることであった。東京市では六年十月二十八日に市会にて大会開催の建議案が可決され、七年七月三十日に国際オリンピック委員会(IOC。以下、IOCと略称)へ招請状を提出し、八年五月四日に東京市会オリンピック実行委員会が設立となり、十年二月に政府の経費補助が衆議院、貴族院で可決されるなど、東京誘致は市会の賛同、政府の協力を得て着々と準備が進められていた(第一二回オリンピック東京大会東京市報告書)。
 ところで当時、冬季大会の開催はオリンピック憲章によって、夏季開催国がその権利を有していた。そのために東京市への誘致、そして開催に当たっては、冬季大会の開催地の選定も併行して行われることになった。
 当初、第一二回開催地の決定は十年二月二十六日に開かれた、オスロ(ノルウェー)でのIOC総会にて決定するはずであった。東京は初のアジア開催地として最有力の候補地であった。しかし、付随して冬季大会までもアジアに行くことを反対するヨーロッパ諸国からは、冬季大会を他国へ譲渡する提議も出されて会議は紛糾し、結局、開催地の決定は見送られ、翌十一年七月三十一日のベルリン(ドイツ)での総会にて、東京開催が正式に決定した。だが、この会議では夏季、冬季大会の分離開催の問題が出され、冬季大会の開催地決定は見送られることになったのである。