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前途の暗雲と大会中止

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 しかし、大会開催にいたるには三つの大きな障壁が控えていた。第一は国際スキー連盟(FIS)とIOCの「教師問題」をめぐる対立であった。これは「教師」というプロスキーヤーの参加問題であり、オリンピックのアマチュア規程に反することからIOCは参加を認めていなかった。昭和十三年三月にカイロで開かれたIOC総会でも両者の対立はとけず、FISはオリンピック不参加を決めたために、札幌大会はスケートのみの変則開催という事態に直面することになる。
 第二は時局の推移によるものであり、十二年七月以来、日中戦争は拡大する一方であったが、国際関係の上で日本の立場は微妙となっていた。IOC総会でも、日本の大会返上を求める意見も出てきていた。第三には、国家総動員体制のもとでの大会開催に否定的な国内状況であった。十二年九月八日には既に、「オリンピックの開催 非常時に鑑み断念か」の報道もなされたが(北タイ 昭12・9・8夕)、政府による大会補助金の決定が進まず、三沢寛一市長も「政府の方針決定次第直に応ずる用意」と談話するなど(北タイ 昭12・11・19)、大会開催は政府の判断次第となってきていた。実行委員会では組織の拡充をはかって道会議員の参加を求めるも、非常時の開催に反対する道会からは、委員の推薦を見送られ厳しい状況となっていた。
 そして遂に十三年七月十五日、政府はオリンピック開催の返上を通達し、十六日に開催の中止、大会の返上が正式に決定し、十七日には実行委員会も解散となったのである。

写真-10 中止となった札幌大会のポスター