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招致活動

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 正式立候補によって札幌市は、本格的な招致活動が展開できるようになったのであるが、三十九年一月のIOC総会までには、期間的には一年もなかった。やはり、JOC、政府承認の遅れが札幌市の招致・広報活動に影響しており、札幌の出遅れは否めなかったといえる。早くより立候補の届出をしていたグルノーブル(フランス)、カルガリー(カナダ)などの諸都市では、既に積極的な活動を展開していたからである。
 市内では運動を盛り上げるために二月五日に、「オリンピック推進と映画の夕べ」が開かれ、三月二十一日には「一九六八年第一〇回オリンピック冬季大会札幌誘致推進道民大会」も開かれ、パレードや「札幌オリンピックの実現推進」の大会決議が行われていた。

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写真-11 札幌誘致推進道民大会のポスター

 そして招致・広報活動の中心となる、第一〇回オリンピック冬季大会札幌招致委員会が組織され、三月二十四日に札幌で設立総会が開かれた。これは札幌市オリンピック招致委員会に代わる、各界を網羅した全国的な組織であり、会長に川島道開発庁長官・東京オリンピック担当大臣、副会長に原田市長、町村金五知事などが就任していた。委員は二九七人おり、四六人の実行委員による実行委員会も設けられていた。具体的な招致計画を策定する実行委員会では、第一回の委員会を四月一日に開催し、招致使節団の派遣、広報・宣伝活動を協議していた。事務局には総務、広報、施設、調整、競技の五部と東京支所が置かれた。
 第一回目の使節団として五月十四日に、原田市長等はアテネの国際スキー連盟(FIS)、ヘルシンキの国際スケート連盟(ISU)の総会、ローザンヌのIOC実行委員会出席のために出発していた。引き続き九月には、三班に分けて派遣するなど活発であったが、一九六八年(昭43)オリンピック夏季大会が、十月十八日のIOC総会にてメキシコシティーに決定し、冬季もヨーロッパを離れることとなる札幌開催には悲観論も流れてきていた。
 開催地決定をするIOC総会は、インスブルックにて三十九年一月二十四日から開会された。総会には原田市長等が出席したが、出発前の一月十五日に「一九六八年冬季オリンピック招致札幌市民大会と体育のつどい」が開かれ、札幌開催が祈念されていた。しかし、二十九日の七都市の中から開催地を決定する投票で、札幌市は第一回目で五一票中六票しか取れず、四位という結果で落選となった。最終的にグルノーブル(フランス)とカルガリー(カナダ)の決選投票となり、第一〇回大会の開催地はグルノーブルに決定したのである。