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建設事業と住民との軋轢

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 札幌市におけるオリンピック誘致の目的の一つに、都市基盤整備のまちづくりがあった。市の都市計画は昭和三十五年度からの十カ年計画、それを修正した四十年度からの六カ年計画があったが、オリンピック開催地の決定により後者は四十一年度で打ち切られ、市は四十二年度からは事業費一八〇〇億円の新五カ年計画(札幌市建設五年計画)を策定した。この中にはオリンピック関連の道路、環境施設、競技施設、地下鉄建設、都市再開発事業などが盛り込まれ、順次実施されていくようになる。
 国、道、公団などの各種建設事業も進められ、札幌市内の主要幹線道路が新設・整備され、高速軌道の地下鉄が開通し、駅前通は拡幅され地下街も出現した。市役所が新庁舎となり、ビルの新築やホテルの新設も相次ぎ、札幌の町並みは一新されたといってもよい。
 こうした建設事業が相次ぐ中で、住民との軋轢(あつれき)も生まれていた。例えば創成川幹線道路建設に際し、石狩街道(国道二三〇号線)との間にはさまれ孤立する北八条から十三条の商店街では、一四二軒が移転を迫られていた。石狩街道創成川沿線開発期成会が四十四年一月二十日に結成され、移転補償問題をめぐって市と協議が続けられ、その交渉がまとまり四十六年から各商店の移転が開始されていった。由緒ある商店街が、オリンピック道路のために犠牲となったのである。
 高速道路の札樽自動車道の建設では、富丘地区における予定路線七四〇メートルの部分が住宅地に近いために、排気ガスと騒音被害を理由に二五〇メートルほど山側部分への変更を求めて、四十二年六月十七日に住民一一人が札樽バイパス富丘地域対策協議会を結成していた。日本道路公団が計画変更を認めなかったために住民との対立は深まり、土地収用法による事業認定を受けるまでにいたった。だが、路線に沿い両側八〇メートルを買収し、代替地の提供という条件で両者の和解が、四十六年六月にいたりようやく解決をみていた。
 その他、四十六年五月二十九日に山の手・宮の森区画整理対策会議では公害、土地減歩などの問題で市長との話し合いを開くなど、道路建設をめぐっての問題は多かったといえる。