昭和四十三年のオリンピックを招致しようとしたが失敗した。三十九年に開かれた東京オリンピックの際に東京の街が整備されていく様子を見ていた札幌市では、都市整備を念頭に置いて招致活動を展開したが、市長は議会答弁の中でオリンピックの開催は街づくり一〇年計画を促進するという考えを示している(昭36一定会議録)。さらに四十七年のオリンピック招致の際に『広報さっぽろ』では、「オリンピックが札幌で開かれることになれば、開催地としてはずかしくないように、道路や下水などの整備が国をあげて強力に進められることが期待されることです」、とオリンピックをひらくことで国による札幌の都市整備推進をあげている。さらに東京オリンピックの際の都市整備が国をあげて力を注いだことの成果であるとし、「札幌市も、冬季オリンピックの開催が決まれば、市だけでなく、大きな政府資金が投入されて、道路や下水などのいろいろな施設が整備され、街づくりを大きく促進することができるわけです」と市民に宣伝した(広報 昭41・3)。四十一年四月冬季オリンピックの札幌開催が決定した。それを受けて札幌市では、札幌オリンピック組織委員会の関連施設専門委員会でオリンピックまでに建設しなければならない道路の計画の骨子を発表した。それによると「各競技場を結ぶ道路をはじめ、札幌の出入りの車をさばく道路、市内の道路などざっと七十四路線、総延長約四百七十キロメートル」をつくる必要があるとしている(道新 昭41・11・15)。そして関連施設専門委員会の道路小委員会は、四十二年二月札幌市の計画骨子を下に検討して組織委員会にオリンピック道路について中間答申を出し、組織委員会はそれを参考にして関係当局(国や道と思われる)から具体的な計画を出してさらに検討することにした(道新 昭42・2・4)。オリンピックに関連する施設については、オリンピック組織委員会からも施設整備方針が出されて、国や道など関係機関と共に整備が進められることになった。
また六年計画が実施に移された四十年九月二度にわたる台風の襲来で雨に弱い札幌が露呈した。そのため下水道計画の根本的な見直しが必要となり、札幌市では六年計画の修正を検討しはじめた(道新 昭40・9・22)。
一方手稲町との合併が具体化した四十一年八月、札幌市と手稲町から『手稲町開発の基本構想』が出され(道新 昭41・8・22夕)、それに基づいて九月『手稲町域における事業計画の概要』が策定された(道新 昭41・10・4夕)。そして四十二年三月手稲町が札幌市と合併した。
四十二年六月十三日、原田市長は三期目の就任に伴う施政方針の中で六年計画の完遂と題しながら、「100万都市実現の準備、冬季オリンピックの関連事業等の事情により、実施期間を一か年延長し、内容を拡大修正する必要がある」として、「可及的すみやかに改定いたしたい」と六年計画改定の意志を示した(昭42二定会議録)。