敗戦直後市内交通機関である市営電車は、車両の老朽化にともなう破損車両の増加で車両不足、さらに乗務員の出征による人員不足の状態で順調な運行が出来ず、混雑が激しかった。その状態は昭和二十二年(一九四七)になっても改善されず、三月交通復興委員会を設け、第一計画として現在の運行に対する応急処置と第二計画として四カ年計画に分けて交通事業の復興をはかることなどが提案された(道新 昭22・3・17、3・20)。そして交通事業所を交通局と改称し、二十二~二十四年度の交通事業復興計画を樹立した(昭22事務)。計画の主なものは、軌道改修、枕木交換、電車線張り替え、電車改修、自動車購入などで、二十四年度にはその成果もみられるようになったといわれている(七期小史)。
次いで二十五年からの『新規事業五年計画』では、軌道拡張工事(鉄北線延伸、西一五丁目線と鉄北東線の新設、山鼻西線と豊平線の一部新設、山鼻西線の一部複線)、変電所増設工事(変電所一カ所新設、大通変電所機器増設)、電車購入(新車二五両)、集電装置改良(トロリポール方式をビューゲル式に改良)、バス購入(五五両)などがあげられていた(新規事業五年計画総括表)。この計画は鉄北東線の新設など実施されなかったものもあるが、計画事業の実施と共に復興の成果を示すようになってきた。