札幌で盛んな軽工業として木材工業をあげることができる。戦時中には軍の要請により新たに木工業界に進出した業者が多く、戦後は、乱立した多数の零細企業が過当競争を繰り広げていた。また、コスト高、低品質から道産木材を用いた内地の木工品の方が道内で安く売れるということもいわれた。北海道は森林資源が豊富なだけに、有効利用、品質という面で立ち遅れていたのである(北海道木材加工界の転換期私見 北海経済新聞 昭23・11・22)。二十七年四月に清水工業(株)は、合板をつくっていた第二工場を閉鎖し、第一工場も一カ月間閉鎖を組合に通告していたが、ついに九月には一五四人全員に解雇通告をするにいたった(道新 昭27・9・13)。一方では、このような苦境に対し立ち向かう新たな動きもみられた。二十六年十二月に札幌木材工業協同組合(理事長宮本重利、組合員一八企業)が結成され、共同で木材乾燥施設が設けられ、木工機九台、熱風炉、五馬力送風機などの設備を有していた。それまで零細な木材加工業者は、天日乾燥に頼っていたため、冬季間はまったく無駄にすごしていたが、これにより低コストで通年乾燥が可能になった(道新 昭28・11・14)。