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機械工業の経営危機

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 札幌の機械工業は、明治後期から農機具、炭鉱機械、鉄道車輌修理・製造といった分野で発展し、戦前では東京以北で最大の集積地域であった。戦時中は、軍の下請工業制度のもとに組み込まれ、札幌の藤屋鉄工所、中山機械、伊藤組鉄工などは有力なメーカーとして役割を果たし、藤屋鉄工所の藤森安太郎社長は、札幌地方兵器統制工業組合理事長を務め、軍の兵器発注を受けていた。終戦に際して工作中の兵器はすべて破壊するよう指示があり、藤屋鉄工所では熔解材料に供した。平和の到来とともに軍需から民需への転換がなされ、藤屋鉄工所ではバンドソー(製材用鋸)、キャラメル自動包装機などを生産した(藤屋系鉄工史明治22年~昭和50年)。

写真-2 藤屋鉄工所

 しかし、戦後の超インフレ、物資不足、電力不足のもとでの機械生産は荊(いばら)の道であった。傾斜生産方式により石炭の増産が進み、炭鉱機械の発注がさかんに行われた。二十二年十一月に札幌商工局(北海道通産局の前身)が炭鉱機器増産対策委員会を開き、炭鉱機械指定工場として札幌からは伊藤組鉄工所、文興機械三信機械を選定した(北海産業経済新聞 昭22・11・29)。二十三年二月には同委員会から炭鉱機器増産に寄与した工場が表彰され、札幌からは豊平製鋼所札幌鋳物会社土田鉄工所の名前がある(北海経済新聞 昭23・2・23)。また札幌の工場として唯一賠償指定工場となり、操業がストップしていた炭鉱機械メーカーの老舗・中山機械(株)が指定を解除され、二十三年八月には「商工省指定炭鉱機械製作工場」という広告を豊平製鋼所土田鉄工所と並んで出している(北海産業新聞 昭23・8・11)。このように傾斜生産方式の時期から、札幌の機械メーカーは、炭鉱機械の受注・増産を政府からの要請もあり果たしていたのである。
 ところが、炭鉱会社から機械メーカーへの支払が大幅に滞ったのである。炭鉱会社から道内機械メーカーへの未払金は二十三年一月末に四四七三万円、四月末には六〇九三万円、五月末には八〇〇〇万円にものぼった。このため機械メーカーでは、賃金の分割払い、遅配、熟練工の退職という事態が生じたのである(北海経済新聞 昭23・5・31)。中山機械は、賠償指定時の操業停止もたたり、賃金遅配から二〇歳代の若い従業員が続々退社する事態となった(北海経済新聞 昭23・4・26)。翌年にも事態は改善されず、一月には炭鉱への政府支払が一六億円あったが、メーカーへはこのうち二パーセント(約三二〇〇万円)しか支払われず、依然として未払金は一億円残るという。先の北海道炭鉱機器増産対策委員会でも手を拱(こまね)いていたわけではなく、手形支払の具体化、政府より機械メーカーへの直接融資を要請したが結果がどうなったかはわからない(北海経済新聞 昭24・1・17)。四月には土田製作所(土田鉄工所)と夕張製作所が工場閉鎖、従業員の大量整理の報道がなされている(北海経済新聞 昭24・4・25)。豊平製鋼所は六七人の解雇を発表したが、その代表一二人が市長に賃金の未払いを訴え、生活保護の適用や配給主食の掛け売りを陳情し善処を約束されている(道新 昭24・5・3)。また翌二十五年二月には中山機械の従業員約一〇〇人が市長に賃金の遅配を訴え、主食配給の掛け売りもしくは生活保護を要望している(道新 昭25・2・11)。このような経営危機は、朝鮮戦争後も継続していたらしい。藤屋鉄工所では、受注した機械の代金回収難から賃金の遅配を繰り返し、二十八年十月三日から二四日間の長期ストライキが起きているのである。また、二十九年の夏のボーナスは、生保二カ月~二・五カ月、銀行〇・五カ月、官公庁一カ月、製造業も食品、製紙、繊維、ゴムなどが軒並み一カ月以上なのに対し、中小機械工場は「ボーナスどころか賃金さえもというところが多い」とされ、炭鉱の不況と金融引き締めが原因だという(道新 昭29・6・11)。戦後経済史は、一般に傾斜生産方式からドッジラインのデフレ政策を経て朝鮮戦争の特需で経済復興が果たされるように説明されるが、少なくとも北海道・札幌の中小機械メーカーは、傾斜生産方式のツケを回され、特需もなく、長い深刻な経営難にあえいでいたのである。