北海道においては十五年十一月に北海道有価証券業協会が設立されていたが、十八年十二月の有価証券業整備要綱によって当時六九社中、八割が整理され、わずか一三社しか残存できなかった。しかも戦後の二十三年には七社(うち道内本社は小樽二社、札幌一社、函館一社、旭川一社)にまで激減していた。
しかし北海道においても安定的な長期資金の必要性は変わらず、また東京市場と離れすぎているために各種弊害が随伴し投資者保護のためもあって、札幌証券取引所設立運動が起こるのである。北海道証券業協会理事長(富久屋証券社長)、野村証券札幌支店長、山一証券札幌支店長等が中心となって推進し、敷地を札幌市が、建物を北海道がそれぞれ賃貸するという形で支援し、また道内に事業所を持つ企業に対する寄付金を募るなどして二十五年三月、開所式を迎えた。
寄付金を募るために出された二十四年十一月十日付け高田富與札幌市長名の趣意書には、取引所の必要性について次のように謳われている。
本道産業のぼう大な開発と急激な伸展とは、株式や社債の投資証券を通じて円滑なそして安定を期した長期資金の調達を必要とすることは申すまでもありません。またこれがため、これら証券類の公正な取引とよりよき流通とによる投資家の便宜と保護とを図る必要があり、既に各方面の強い要望の下に、公共的機関の右取引所が設立されることになったのであります。
(札幌証券取引所十年史、札幌証券取引所五十年史)
証券取引委員会への会員登録数は一七社(函館、北興、北明、北門、小樽、山田屋、富久屋、札幌、北日本、上光、紅葉屋、宝生、日興、日本勧業、大和、野村、山一各証券)であったが、直後に小樽証券が脱落し、二十五年四月一日の初立会は、一六社の会員、八七社の上場会社一〇五銘柄(うち地場株四二社五八銘柄)でおこなわれ、当日(土曜日のため半日)の出来高は五万九四〇〇株であった。
二十五年から三十年までの日経平均株価は最低八五円二五銭(昭25・7・6)から最高四二五円六九銭(昭30・12・28)へと急伸し、この期間の札幌証券取引所における総売買高は、二十五年約六五七万株から二十六年九九八万株、二十七年一四〇〇万株、二十八年一五九七万株、二十九年一二七六万株、三十年一五四八万株と推移した。このうち地場株売買高が占める割合は三一・四パーセント、二七・九パーセント、四〇・九パーセント、三〇・八パーセント、三五・一パーセント、二二・一パーセントと推移している(札幌証券取引所五十年史)。
株式取引高が景気変動に対応していることは言うまでもないことだが、いわゆる消費景気の頃の新聞は「世はまさに株式黄金時代の到来であろうか」と、株が「パチンコ同様大衆の身近かなものになった」状況を「株に群がる人々」と題して次のように伝えている。
札幌Y会社の例では店頭係り十人が朝の九時から晩の六時まで客の対応につききり、一人当たり四百人の得意をもつというから大よその見当はつこうというもの。その中のA君の話『何を奨めても儲かるのでお客は大喜び、元手を二、三倍にしたのはザラ、群は群をよんで千客万来、会社の女事務員さんもみえます』と鼻息も荒い。おかみさんのヘソクリが当っていまでは親父さんもきて相場表をニランで行く一家総動員型も出ているという。
(道新 昭27・11・2)