本道では戦前には一三社もあった無尽会社が整理統合され、現在の一社となったもので、其の結果自然独占的な傾向を帯びると共に、本道は他府県に比較して広範な地域に亘るため、中小企業者はその利用に不便を感ずる点が甚だ多く、これ等の情勢が無尽会社新設に対する切実な要望となって現われ、茲に北海道無尽株式会社設立の発起となった次第である。
(北海道相互銀行三十年史)
と述べ、戦後の資金需要に追いつかない事情を強調している。
また「設立趣意書」(昭24・6)は「今や連合軍の占領政策により事業独占の禁止、経済集中の排除は勿論、総ての点に民主化されんとしている時、一般大衆に最も必要な庶民金融機関である無尽会社の民主化は特に急を要する問題であります」(北海道相互銀行三十年史)と述べ、独占の禁止という民主化運動の流れに沿った主張となっている。
株式募集は北海道銀行設立運動に追いかけられる形となったため困難を極めたが、二十五年十一月には払込を完了し、同年十二月一日、大蔵大臣名で本免許がおり、札幌本店において同日から営業が開始された。
創業当初第一期の業績は無尽契約高一三億一一四八万円、資金量七七八六万円、融資量九二三〇万円であった(北海道相互銀行二十年史、北海道相互銀行三十年史)。これらは見込みを大幅に上回る「驚異的な実績」(北海道相互銀行三十年史)であった。しかし、予想をはるかに上回る当期損失金一八九四万円も発生し、次期に繰り越されたが、第四期(昭27上期)からは純利益金を計上でき、第六期(昭28上期)には損失を全額補塡して株の配当が初めて実施された。その後の預貸金状況についてみると、翌二十七年度末の資金量は一一億二三〇万円、融資量は一〇億二八三二万円であったが、これが三十年度末には資金量六一億二一七二万円、融資量五一億九四〇六万円となり、それぞれ五・六倍、五・一倍へと急伸した。
その後、二十六年十月に相互銀行に転換し、三十年度までには支店、出張所、業務取次所等の店舗を拡充し、三十年度末現在、本支店二七、出張所一〇(業務取次所二〇、契約専門店三は二十八年度までに全廃し、ほとんどが支店または出張所に昇格した)となっている。この間、従業員は二十五年十二月末の一二三人から三十年九月末の七一〇人へと増大し、また資本金も当初の五〇〇〇万円から二十九年一月に七〇〇〇万円、三十年十二月に八〇〇〇万円それぞれ増資して二億円となった(北海道相互銀行二十年史)。