昭和二十四年以降、生鮮食料品や石炭、日用品の統制が徐々に解除され、自由販売が可能になってくると、商業の復興は新たな段階をむかえた。ところで、この時期の札幌の商業の実態はどのようなものだったのだろうか。
二十四年十~十一月にかけて、市は戦後初の「商工業実態調査」を札幌商業高等学校の協力により実施し(昭24事務)、翌二十五年二月その概要を発表した。それによると、札幌市の全商店数四〇九九軒、全市戸数の一三軒に一軒の割合で商店があり、その分布は、中央地区が五二一軒でトップ、東地区が二六六軒である一方、藻岩地区では一二軒、幌西地区は六五軒など少ない。また企業形態は、個人商店が全体の八三パーセントを占め、株式会社は一二パーセント、有限会社はわずか一・五パーセントに過ぎなかった。さらに取引先については、卸、小売を含め商業全体としての仕入先が道内八一パーセント、東京一〇パーセント、大阪二パーセント、その他七パーセントという割合で、卸売商だけでみると、仕入先は道内が五七パーセントにとどまっている。一方販売先は、道内が九五パーセントを占め、道外への進出はわずか五パーセントと低調である。
次に各店の創業年次は、二十三年創業が四八一軒で最も多く、開店して一年以内の店が四七一軒でこれにつぎ、四〇九九軒のうち約一五〇〇軒が終戦後創業した店であり、明治時代創業の古いのれんを誇る店は二二四軒に過ぎなかった(道新 昭25・2・16)。このことから老舗が戦後の経済混乱により没落し、また混乱に乗じて開業した人々も二十三年ごろまでには姿を消す一方、混乱がある程度おさまり流通統制の解除がはじまった二十三、四年にかけて、新たに商売に乗り出す人々がでてきたことがうかがえる。しかし経営状況が順調だとする店はわずか六パーセントで(道新 昭25・3・12)、「金詰まりの世相」を反映した購買力の低下や商品不足から、休廃業に追い込まれる店も少なくなかった。