商工会議所が市を単位として設置されていたのに対して、町村には商工会が置かれ、商工業者の補助と育成をはかっていた。これらの商工会は、自主的に組織する任意の団体であり、名称も商工会・商店会・専門店会等とさまざまであったが(北海道商工会史)、札幌市に合併する町村では、手稲町と豊平町に商工会が置かれていた。
まず手稲町では、二十四年二月手稲町商工会が設立されている。産業経済の振興と会員の親睦をはかることを目的とし、事務所は会長の松井信吉宅に置かれた。発足当時五〇人だった会員は、三十二年七〇人、三十五年一〇五人となり、三十六年には手稲商工振興会と改称している。四十年には東地区の土地区画整理事業が完成するとともに、東地区ならびに宮の沢、追分の商工業関係者が、手稲商工振興会から独立して東支所内に手稲東商工振興会を組織した。そのため、手稲商工振興会の会員数は七〇人となったが、札幌市と合併する四十二年には一〇三人となっていた(手稲町誌)。
一方、豊平町では二十八年六月一日、豊平町商工会が豊平町役場内に設立された。同会は「本町商工業者の公正な世論を結集し、その実現に努め各地経済団体との緊密な連絡を促進し綜合的に商工業の改善発達を図り、我国経済の振興に寄与することを目的」とし(定款 総則第一条)、二二〇の商工業者の政策運営が期待された(弘報とよひら 昭28・8・10)。初代会長は定山渓鹿の湯クラブ社長の金川幸三が務めている。
三十三年三月豊平町商工会は社団法人となり(豊平町史)、月寒・美園・平岸・中の島・真駒内・石山・藤野・簾舞・定山渓の九地区に分かれ、会員数は四八七人となっていた。また、社団法人となった後の初代会頭も金川幸三であった(昭33・1現在 会員名簿)。
三十六年五月札幌市への編入にともなって、豊平町商工会は札商と合併したが、豊平町には札商では初めての支所が設置された(さっぽろ経済 昭36・5)。